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尾張国に所在した藩 ウィキペディアから
犬山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり[1]、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、藩として認められていなかった)。居城は犬山城(白帝城)であり、現在の愛知県犬山市犬山北古券を支配した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した犬山城主・石川光吉は改易され、代わって尾張には清洲藩に入部した徳川家康の四男・松平忠吉が52万石で入った。このとき、忠吉の御附家老として小笠原吉次が犬山に所領を与えられたのが、犬山領の始まりである。慶長12年(1607年)、吉次は下総佐倉藩へ移封された。この年、清洲藩では藩主の忠吉が嗣子なくして病死し、清洲藩は無嗣改易となった。その後、家康の九男・徳川義直が尾張藩主として尾張を支配し、犬山城には義直の附家老として徳川氏譜代の重臣・平岩親吉が11万3000石(一説に9万3000石)で入った。しかし慶長16年(1611年)、親吉は嗣子無くして病死し、その遺言によって所領は尾張藩に吸収されることとなった(ただし、犬山藩史では平岩吉範が親吉の後を継いで元和3年(1617年)まで支配したとある)。
元和3年(1617年)、義直の附家老である成瀬正成が3万石で入って、尾張藩を補佐する犬山成瀬氏がここに成立した。第3代当主・成瀬正親時代の万治2年(1659年)、5000石の加増を受けて合計3万5000石を支配することとなり、尾張藩最大の知行を領する重臣となった。なお、犬山城は吉次の治世で城下町と城が整備され、最古の天守を持つ城として国宝とされている。
ところが、犬山成瀬氏はあくまで身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかった。このため、第7代当主・正寿や第8代当主・正住は尾張藩から独立しようと企てたが、いずれも失敗している。
慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山成瀬家は正式に犬山藩主となり、尾張徳川氏の尾張藩から独立した。明治2年(1869年)に藩主・成瀬正肥は版籍奉還により犬山藩知事に任じられる。
明治4年(1871年)旧暦7月14日)の廃藩置県で犬山藩は犬山県となり、11月22日に名古屋県(尾張藩を母体とする)に合併された。後にこの名古屋県は愛知県と改名後、額田県(旧三河国と旧尾張国知多郡)を合併する。
明治28年(1895年)、犬山城は成瀬氏の所有するところとなった。
(譜代)11万3000石
(譜代)3万石→3万5000石
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