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特二式内火艇 カミ車(とくにしきないかてい、もしくはうちびてい カミしゃ)は日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車。1942年(昭和17年/皇紀2602年)に制式採用された。昭和以降の兵器の呼称様式に従い皇紀の下2桁を取って「二式」と呼ばれる。
海軍陸戦隊はそれまで八九式中戦車や九五式軽戦車等の陸軍制式戦車、及び独自に輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車等を使用していたが、上陸作戦に使えるような車両は保有していなかった。そこで陸軍技術本部の協力を仰ぎつつ、エンジン、ギアシャフト、電気系統などで九五式軽戦車をベースとして開発したのが本車である。
潜水艦による輸送を考慮したため、全面的に溶接構造を採用し、ハッチ部分にはゴムシールを装備するなど、車体の水密化を図っていた。水上航走時は、後部に付けられた2軸のスクリュープロペラによって推進した。
砲塔は二式軽戦車の物を流用していた。主砲は、前期型では間に合わせに九四式三十七粍戦車砲もしくは九八式三十七粍戦車砲を搭載していた。後期型では本来の一式三十七粍戦車砲を搭載していた。一式三十七粍戦車砲は主砲同軸機関銃である九七式車載重機関銃との双連であった。また、車体前方左側に九七式車載重機関銃を装備していた。そのため、前期型は車体前方の機関銃1挺のみであり、後期型では主砲同軸機関銃と合わせて2挺である。
また、搭載兵装として館山海軍砲術学校研究部作成「陸戦兵器要目表」特二式内火艇の項の特徴としての中に「要スレバ二式魚雷二本ヲ搭載スルコトモ可能」とあり魚雷攻撃が可能であった事を示唆させている。しかし実際に試験した記録がなく、その後に特四式内火艇が登場したことで混同しているおそれもある。また、魚雷と車体の大きさや落射器の装備位置の兼ね合いから実現にもそもそも無理があった可能性が高い。
本車の特徴として、車体の前後に水上走行を可能とするための着脱式の舟形フロート(浮き)を取り付け、上陸後に取り外せるようになっていた。ただし、フロートの再装着には時間がかかるため、厳密には本車が「水陸両用戦車」でいられるのはフロートを付けている状態の時のみである[要検証]。ただ、帝国海軍は本車を上陸侵攻作戦用の兵器と位置づけていたため、この点はあまり問題とはされなかった。前後のフロートは波浪のある海面を航行するためのものであり、静水(平水)面ではフロートを切り離して車体自体の浮力で行動することが想定されていた。なおこの状態での車体の乾舷は約50 cmである[1][2]。前部フロートには一体式の前期型と左右分割式の後期型があった。
また、展望塔や換気塔も上陸後は外される事となっていたが、こちらは実戦では付けたまま行動しているものもある。
試作車は1941年(昭和16年)に完成し、翌年に“特二式内火艇 カミ車”として制式化された。公式には、フロート装着時を特二式内火艇と称し、艦船名簿にも記載されており、“隻”で数えられ、フロートを切り離した状態を特二式戦車と称する[1]。
本車は終戦までに約180輛が完成し、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備された。搭載砲は既に威力不足となっていたものの、貴重な装甲戦力として重宝された。
初の実戦となったのはクェゼリンの戦いであった。サイパンの戦いでは10輛が配備され、上陸作戦ではないためフロートは未装着であったが、プロペラスクリューは装着している[3]。フィリピンのレイテ島の戦いでも使用された。台湾沖航空戦の戦果を鵜呑みにした大本営は同島を決戦地と捉え、多号作戦と呼ばれる強行輸送を1944年(昭和19年)10月下旬から繰り返し行った。12月7日にレイテ島を巡る戦いの事実上の終結点ともいえるアメリカ軍のオルモック湾上陸作戦が行われたが、その直後、12月11日の夜間にはマニラから第九次船団となる二等輸送艦2隻が駆逐艦「夕月」・「桐」の護衛の下、400名の陸戦隊員と本車10隻、トラック、火砲、物資を満載してオルモック湾に到着した。
先に上陸を開始した「第159号輸送艦」はアメリカ軍第55師団から攻撃を受けるも機材を下ろし、続く「140号」も機材の6割を下ろすことに成功した。洋上でも駆逐艦隊同士の交戦が行われたものの、大破した「159号」を除く3隻は離脱することができた(ただし「夕月」は帰路に空襲で撃沈される)。
上陸部隊は激しい攻撃にあいつつも、日本軍守備隊の誤射と信じており、砲塔から顔を出し、「味方だ、撃つな!」と叫び続け、一発も撃たず、同士討ちを恐れて決して反撃しなかったという。実際には、そこにいたのは、撤退した日本守備隊の陣地にいた米軍の砲兵隊などで、「第159号輸送艦」は機材をすべて下ろしたが、集中砲火を受け、大破し、特二式内火艇1隻が海上で撃破されている。上陸した9隻中8隻が撃破され、1隻が無傷で米軍に鹵獲されている。(上陸時の放火での混乱か何かで、搭乗員が脱出した。搭乗員は約400名の陸戦兵とともに移動したと思われる)生き残った約400名の陸戦兵がオルモックを守っていた日本陸軍第26師団の一部と連絡を取ることに成功した。陸戦兵は更に2号ハイウェイに沿って北上を図ったが、アメリカ軍第77師団に妨げられた。やむなくルートを変更し北にあるバレンシア飛行場にいた海軍設営隊と連絡を取ろうとするも失敗し、オルモックの北西にあった海岸の町パロンポン付近に追い詰められ、壊滅した。[4]
北千島の海軍守備隊に配備されていてソ連軍に鹵獲された車輌が、ロシアにあるクビンカ戦車博物館に展示されているほか、モスクワの大祖国戦争中央博物館にもフロートが外れた状態の特二式内火艇が展示されている。パラオのコロールにある野球場『アサヒスタジアム』の裏手には、本車輛が朽ち果てたまま放置されている。雨ざらしのためさび付いているが、特に制限はなく自由に見学が可能。またバベルダオブ島では日本海軍通信隊が使っていた建物を利用した屋外博物館にも展示されている(フロートは別に展示されている)。
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