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平安時代前期から中期の貴族・歌人。源国紀の次男。蔵人、従四位下、太宰大弐、山城近江守、右大弁。子に源宏平(宮内丞)、澄観、勝観、寛祐、慈慶(滋慶) ウィキペディアから
源 公忠(みなもと の きんただ)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。光孝天皇の第十四皇子である大蔵卿・源国紀[注釈 1]の次男。官位は従四位下・右大弁。三十六歌仙の一人。滋野井弁と号す。
延喜11年(911年)昇殿。掃部助を経て、延喜18年(918年)醍醐天皇の六位蔵人に任ぜられ、延長2年(924年)蔵人の功労により従五位下に叙爵。延長6年(928年)五位蔵人、延長7年(929年)右少弁と醍醐天皇の身近に仕えた。
延長8年(930年)朱雀天皇の即位に伴って再び五位蔵人に再任すると、承平2年(932年)従五位上、承平3年(933年)右中弁、承平6年(936年)正五位下、承平7年(937年)左中弁、天慶元年(938年)従四位下と、朱雀朝前半は蔵人に弁官を兼務して天皇の身近に仕えながら順調に昇進した。
天慶3年(940年)大宰大弐、天慶4年(941年)近江守と朱雀朝後半は地方官を歴任するが、天慶6年(943年)右大弁として京官に復す。天慶8年(945年)病気により右大弁を辞任。 天暦2年(948年)10月28日卒去。享年60。最終官位は散位従四位下。
歌合や屏風歌で活躍し、紀貫之からは辞世の歌を贈られた。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に21首が入集[1]。家集に『公忠集』がある。また、香道や鷹狩に優れていた。
『三十六人歌仙伝』による。
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