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清凉寺木造釈迦如来立像
京都府にある国宝(美術品) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
清凉寺木造釈迦如来立像(せいりょうじもくぞうしゃかにょらいりゅうぞう)とは、嵯峨清凉寺の本尊である木造釈迦如来立像のこと[1][2]。製作は北宋時代(雍熙2年・985年)で、製作者は張延皎と張延襲[2]。入宋した奝然が日本に請来し、寛和3年(987年)に入洛。4年後の正暦2年(991年)に棲霞寺釈迦堂(のちの清凉寺)に安置された[2][3][4]。
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清凉寺・国宝
清凉寺木造釈迦如来立像は、優填王が釈迦の不在を嘆いて作らせたという伝承をもつ仏像(優填王思慕像)のひとつである揚州開元寺の栴檀像[注釈 1]を摸刻した像である[6]。形式的な特徴は、頭髪は日本で一般的な螺髪ではなく縄が渦巻くような形で、法衣は両肩をつつむ通肩で胸を中心に同心円状に波打つ衣文が表現される点である。また裙(くん・下半身に巻き着けるスカート状の衣)の下端が2段に表される。これらの特徴は伝来した10世紀末の日本の仏像にみられないもので、釈迦の生前の姿を写した像とされた[1][7]。
また1954年(昭和29年)に行われた修理をきっかけに、胎内から夥しい数の納入品が発見された。特に絹で作られた五臓の模型は宋の風習を知る上でも重要とされている[8][9]。1955年(昭和30年)6月22日に国宝に指定された[10]。
清凉寺木造釈迦如来立像は「三国伝来の瑞像」と称され、鎌倉時代を中心に盛んに摸刻された[3][注釈 2]。これらを清凉寺式釈迦如来像(せいりょうじしきしゃかにょらいぞう)[1][11]またはさが式釈迦像(さがしきしゃかぞう)[12]という。前田元重(1974年)によれば、現存する清凉寺式釈迦如来像は全国70体を数える。また部分的な影響をうけた変形像も少なくなく、これを合わせた数は88体としている。清凉寺式釈迦如来像にも重要文化財に指定されているものが少なくない[13]。
本記事では、清凉寺木造釈迦如来立像(以下、清凉寺本尊)と、それを摸刻した清凉寺式釈迦如来像(以下、清凉寺式像)について記述する。