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深溝は徳川氏が松平氏を名乗っていた頃は、松平氏の分家である深溝松平氏が治めていた。この深溝松平氏の中でも最も有名な当主の中に、戦国時代の武将で「家忠日記」を記したことで有名な松平家忠がいる。家忠が徳川氏の関東移封に従って深溝から去ると、深溝は吉田城の池田輝政、岡崎城の田中吉政らによってそれぞれ分割統治されることとなった。深溝城には輝政の家臣が入っている。
家忠はその後、下総小見川藩主(1万石)となったが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて鳥居元忠らと共に奮戦したものの討死。家督は家忠の子・松平忠利が継いだ。徳川家康は家忠の死を賭しての活躍に報いるため、関ヶ原の翌年に忠利に対して常陸国内において大幅加増を約束したが、忠利はこれを謝絶して故郷である深溝の復帰を望んだため、家康は加増なしの上で深溝を与えた。忠利は治水工事などで手腕を見せたが、慶長17年(1612年)11月、三河吉田藩3万石に加増移封となり、ここに深溝藩は廃藩となった。
慶長19年(1614年)7月、山城国において1000石を領していた板倉重昌は、深溝において1230石を加増された。その後も家康の側近として活躍し、家康死去の時点では5230石を領する大身の旗本となっていた。寛永元年(1624年)、重昌の父である板倉勝重が死去すると、兄の板倉重宗は弟の重昌に対して6610石の所領を与え、重昌は5230石に加えて合計1万1800石余りを領する大名となり、深溝に陣屋を構えたことから、再び深溝藩が立藩した。
その後、重昌は領内に検地を実施して、1万5000石の出来高を幕府に報告し、これが認められた。寛永14年(1637年)、重昌は島原の乱鎮圧の総大将として幕府軍を率いて出陣したが戦果を挙げられず、幕府から新たに松平信綱が増援として送られたことを知ると、功をあせって無謀に自ら突撃し、翌年元旦に戦死した。
死後、家督は重矩の不手際のために家督相続が大幅に遅れた上で、子の板倉重矩が継いだが、重矩は程なくして藩庁を三河中島藩に移したため、深溝藩は廃藩となった。
1万石。譜代。
1万5000石。譜代。
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