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日本の染織研究家 ウィキペディアから
浦野理一(うらの りいち、1901年4月22日[1]-1991年[2])は、日本の染織研究家[3]、染織プロデューサー[4]。飛鳥時代から江戸末期までの染織物数万点を収集して研究し[1]、作品づくりや著作に反映させた[2]。そのコレクションは日本で唯一ともいわれた[1]。雑誌『ミセス』誌上で長期にわたって連載を持ち[2]、小津安二郎の映画では衣装を担当した[2]。
1901年4月22日、群馬県高崎市にて、父・彦三郎、母・たきの長男として生まれる[2]。美に敏感で、小学生の頃からきものに興味を持ちはじめた[1]。東京・神田の錦城商業学校を卒業し[5]、1918年(大正7年)、日本橋白木屋(元東急百貨店日本橋店)に入社し、呉服部に勤めた[5]。染織研究のためのきものやボロきれ集めに熱中し、古着屋や骨董屋を巡って月給の大半を注ぎ込んだ[1][5]。1933年(昭和8年)長野県下諏訪町で浦野繊維工業を創業。浮世絵で描かれるきものの柄の美しさに魅了され、喜多川歌麿、歌川豊国、葛飾北斎らの浮世絵の収集にも手を広げた[1]。
1954年(昭和29年)から19年間にわたって北鎌倉の東慶寺で作品展「帯ときものの会」を開き[6]、市民や文化人、外国人の注目を集め、鎌倉の年中行事とも言われるほどだった[1][6]。
1957年(昭和32年)、芸術部門で民芸織物の収集と研究が評価され、第6回神奈川文化賞を受賞した[1][7]。
1958年、小津安二郎初のカラー作品『彼岸花』に浦野のきものが使われた。クレジットには「衣装考撰 浦野繊維染織研究部」と記載された[8]。『秋日和』(1960年)、『小早川家の秋』(1961年)、『秋刀魚の味』(1962年)でも浦野のきものが使われ[9]、クレジットにはいずれも「衣装考撰 浦野染織研究所」と記載された[10]。浦野が小津と知り合ったのは、小津の母との縁だと浦野自身が述べている[11]。
1959年に出版された『幸田文全集』(中央公論社)では、表紙に浦野の手織木綿が用いられた[12]。茶と薄鼠の子持ち格子は「幸田格子」と命名された [12]。雑誌『婦人公論』に掲載された全集の広告には「装本・浦野理一」「布地製作浦野繊維工業」の記載があり[13]、「戦後出版界最高の造本」[13]、「その内容に最もふさわしい芸術的造本」[14]と紹介され、「幸田格子」の原寸大の写真も掲載された[14]。
1962年、北鎌倉に「浦野染織研究所」を設立した[2]。
1963年から90歳で亡くなる1991年まで、雑誌『ミセス』誌上できものページを担当した[12]。
息子の範雄に「国産の繭が作られなくなったら、糸も駄目になるから廃業しなさい」と遺言した[16]。
浦野のコレクションや資料は範雄に引き継がれたが[17]、真綿を紡いで作る節のある糸「瓢箪糸」が手に入らなくなったため工房は閉じられた[16][注 1]。
膨大な資料は銀座のきもの店「灯屋2」に受け継がれた[17]。
紬は長野・下諏訪の染織研究所で、染めは北鎌倉の自宅兼工房に抱えた職人によって制作された[18]。
節のある糸で織った「経節紬(たてふしつむぎ)」が浦野の代名詞だった[19]。
小津映画や雑誌『ミセス』で浦野の作品が知られるようになると、無地の経節紬に縮緬の友禅を合わせるといった、モダンで新しい組み合わせが人気を博し、コピー商品が出回るほどだった[2]。
浦野のきものは「文人好み」と言われ[12]、大佛次郎、里見弴、前田青邨、小倉遊亀といった鎌倉文化人やその妻たちに支持された[12]。
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