河井彌八
日本の政治家 ウィキペディアから
日本の政治家 ウィキペディアから
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日[1])は、日本の官僚・政治家。侍従次長や第4代参議院議長を歴任する。静岡県出身。
現在の静岡県掛川市出身。1897年静岡県尋常中学校卒業。1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
1938年1月7日に貴族院議員に任命された[2][3]。貴族院では同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[1]。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。
サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[4]。
戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県地方区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回通常選挙でも再選された[5]。
1953年には参議院議長に就任した。1956年の第4回通常選挙では議長在任中だったが落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。没後に従二位・勲一等旭日桐花大綬章が授章された。
河井家は代々庄屋を務めていた家系であり、父の河井重藏は9代目の当主にあたる[11][12]。重藏は、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.