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水島の戦い(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。寿永2年閏10月1日(ユリウス暦1183年11月17日 グレゴリオ暦換算1183年11月24日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島)[1]において義仲軍と平家軍との間で海戦が行われた。水島合戦(みずしまがっせん/みずしまかっせん)とも呼ばれる。
当時、平家軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平家を追討するため、寿永2年(1183年)9月20日に義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で平家軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の同族である武将足利義清・義長兄弟と海野幸広(海野氏)である(『源平盛衰記』)。
平家は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平家軍の弓兵による義仲軍への射撃によって開戦した。平家軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬と共に海岸まで泳いで上陸した。最終的に平家軍は勝利し、義仲軍は足利義清・義長兄弟や海野幸広、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することになった。この勝利により平家軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。
なお、この戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが、『源平盛衰記』等の資料によって確認されている(参照:「日食#予報の歴史」「日食の一覧#12世紀」)。
当時、平家は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから、平家は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある[2]。
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