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梅暮里 谷峨(うめぼり こくが、1750年(寛永3年)- 1821年9月28日(文政4年9月3日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した戯作者、藩士。通称及び幼名は反町三郎助、後に与左衛門。別号に梅月堂梶人、蕣亭、遊里山人等。谷我とも表記される。梅暮里は本所埋堀の藩邸にちなみ、谷峨は母方の姓名に拠る。没後に江戸幕府の旗本であった萩原乙彦が2代目梅暮里谷峨を名乗っており、「初代」として区別される。
経歴は『新版近世文学研究事典』に拠る[1]。
上総の久留里藩士の子として生まれる。1785年(天明5年)36歳で出仕、1794年(寛政6年)45歳で家督を相続して馬廻席(50石取)になり、後に江戸詰め大目付。1788年(天明8年)梅月堂梶人の名で洒落本の初作『青楼五雁金』を執筆し、1790年(寛政2年)続編『染抜五所紋』、梅暮里谷峨の名で『文選臥座』を刊行。その後、約7年著作がなく、1798年(寛政10年)『傾城買二筋道』から執筆活動を再開、末期の洒落本界を牽引した。
なお、伝記に不明な部分が多く、梅月堂梶人を谷峨と同一人物とみなす尾崎久彌説に対して、梅月堂梶人や遊里山人は谷峨と別人とする棚橋正博説が存在する。
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