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平安時代後期の公卿 ウィキペディアから
母方の花山院家は後白河院・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って大きな影響力を保持していた。その花山院家への配慮から、父・基房は師家を三男ながら正嫡として遇しており、治承3年(1179年)には僅か8歳にして権中納言に補任される。しかし、これは師家の従兄である近衛基通を超越しての昇進であり、摂関家の正統な後継者を基通から師家に変更することを意味する措置であった。基通の父近衛基実は平清盛の娘の平盛子と婚姻しており、基実の死後は盛子を名義人として清盛が摂関家領を管理していた。盛子の死後はやはり清盛の女婿である基通を通じて摂関家領の管理を継続することを望んでいた清盛がこの人事に激怒したことが、治承三年の政変のもっとも重大な契機となった。基房・師家父子は官職を奪われ、基房は出家に追いこまれた。基房が務めていた関白には基通が補任された。
4年後の寿永2年(1183年)、平家西走と源義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。娘(藤原伊子とされる)を義仲の正室として差し出して姻戚関係を結び[1]、同年11月、摂政基通を解任し、僅か12歳の師家を後任の摂政とした。
しかし翌年1月、源範頼・義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚してしまう。師家は在任数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降半世紀近くに渡り官に復することもなかった。この間、神童の誉れ高かった外甥の道元を養子に迎えて失地回復を図ったと言われるが、失敗に終わっている。[要出典]
※日付=旧暦
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