東久邇宮稔彦王
日本の皇族、第43代内閣総理大臣 (1887-1990) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日[注釈 1] - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。
概要 東久邇宮稔彦王, 続柄 ...
東久邇宮稔彦王 | |
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東久邇宮 | |
東久邇宮稔彦王の肖像写真 | |
続柄 | |
宮号 | 東久邇宮 |
全名 | 稔彦(なるひこ) |
称号 |
陸軍大将 従二位 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 |
身位 | 王→(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下→(皇籍離脱) |
出生 |
(1887-12-03) 1887年12月3日[注釈 1] 日本・京都府上京区京都御苑 |
死去 |
(1990-01-20) 1990年1月20日(102歳没) 日本・東京都渋谷区広尾、日本赤十字社医療センター |
埋葬 |
1990年1月26日 日本・東京都文京区大塚、豊島岡墓地 |
配偶者 | 稔彦王妃聡子内親王(泰宮聡子内親王) |
子女 |
盛厚王 師正王 彰常王 俊彦王 |
父親 | 久邇宮朝彦親王 |
母親 | 寺尾宇多子 |
宗教 | 神道⇒ひがしくに教⇒神道 |
サイン | |
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概要 出身校, 前職 ...
東久邇宮 稔彦王 ひがしくにのみや なるひこおう | |
---|---|
『歴代首相等写真』より | |
出身校 |
陸軍士官学校 陸軍大学校 サン・シール陸軍士官学校 エコール・ポリテクニーク |
前職 |
防衛総司令官 内閣総理大臣 陸軍大臣 貴族院議員 |
親族 |
久邇宮朝彦親王(父) 賀陽宮邦憲王(異母兄) 久邇宮邦彦王(異母兄) 梨本宮守正王(異母兄) 多嘉王(異母兄) 朝香宮鳩彦王(異母兄)[注釈 1] |
第43代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 東久邇宮内閣 |
在任期間 | 1945年8月17日 - 1945年10月9日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第32代 陸軍大臣(内閣総理大臣兼任) | |
内閣 | 東久邇宮内閣 |
在任期間 | 1945年8月17日 - 1945年8月23日 |
選挙区 | 皇族議員 |
在任期間 | 1907年12月3日 - 1946年5月23日 |
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陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。
第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任[2][3]。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。
内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印[4][5]、軍の解体[5]と復員[4]、行政機構の平時化[5]、占領軍受け入れ[5]などを実施した。しかし、自由化政策[注釈 2]を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した[注釈 3]。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった[注釈 4]。
内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり[6]、1947年(昭和22年)に臣籍降下した[6]。1950年(昭和25年)には新興宗教「ひがしくに教」を立ち上げて一時教祖となった[6][3]。しかし手がけた事業はことごとく失敗した[7]。
歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。