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1824-1890, 清朝の軍人、政治家。字は沅甫。 ウィキペディアから
曽 国荃(そう こくせん、Zēng Guóquán、1824年10月12日 - 1890年11月13日)は、中国清朝の軍人、政治家。字は「沅甫」。湖南省長沙府湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。清朝の著名な大臣曽国藩と曽国華の弟で曽貞幹の兄。湘軍の指揮官の1人。
太平天国との戦いでは長兄の補佐を行い、咸豊6年(1856年)に江西省で兄が苦戦していると聞くと湖南巡撫駱秉章に請うて3千人の兵を集め、吉安に救援に向かい翌7年(1857年)に陥落、功績で知府に抜擢された。咸豊8年(1859年)には江西省全土を掌握し、道員に昇進した。その後九江を出発し、黄州から安徽省に入った。
咸豊10年(1860年)から安慶を包囲し、陳玉成の援軍にしばしば敗れるも、翌11年(1861年)に安慶を陥落させた。同治元年(1862年)に浙江按察使、ついで江蘇布政使に任命され、雨花台から天京の攻撃を開始した。同治3年(1864年)、天京攻防戦で激戦の末に天京を陥落させ太平天国を滅亡させたが、安慶と南京で殺戮を行い、財物を略奪したことで非難を浴びた。
同治4年(1865年)に湖北巡撫に任命、同治6年(1867年)、李鴻章と共に捻軍の鎮圧にあたったが、作戦の失敗で病と称して退職した。光緒元年(1875年)、官界に復帰し陝西巡撫、山西巡撫、両広総督を歴任し、光緒10年(1884年)からは両江総督を務めた。
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