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日本に家系起源を持つカナダ国籍の人物 ウィキペディアから
日系カナダ人(英: Japanese Canadian)は、日本人に家系起源を持つカナダ人や、カナダ国籍を取得した日本人移民。バンクーバーやトロントのような大都市を中心に居住している。
2016年時点で、日系カナダ人の人口は121,485人を数える。
記録に残るカナダへの最初の日本人移民は、1877年にブリティッシュコロンビア州に渡ってきた永野万蔵である。移民の第一世代(一世)の多くは九州や本州の出身で、ほとんどがバンクーバー島やフレーザー川流域に暮らし、漁業などに従事した。当時の日本人の集住地には、バンクーバーの日本人街やスティーブストンがある。第二次世界大戦前の日本人移民は、その数が厳しく制限される1928年頃まで続いた。
日系カナダ人には、当初選挙権が与えられていなかった。そこに第一次世界大戦が起こると、欧州を故郷と感じるカナダ人と、日英同盟の関係で連合国寄りだった在カナダ日本人の間で協力の機運が高まり、在加日本人による義勇兵を派遣する運びとなった。そこには、欧州大戦に参加することで日本人に対する信用を高めて、帰化日本人の参政権と平等待遇を獲得する目的があった。欧州でも、日本の正規軍が参戦すれば何らかの見返りを用意しなければならないが、義勇軍なら欧州軍の指揮下で戦ってくれるので都合が良いという思惑もあった。他国の在外日本人で大戦に参加する者もいたが、なかでも日系カナダ兵は志願兵だけで構成されていたにもかかわらず人数が多かった。こうした動きに対し日本国内では賛否両論だったが、カナダの日本人義勇兵の志願者は200名以上に上り、そのうち54名が命を落とした。大戦後の参政権獲得も思惑通りにはなかなか進まず、義勇兵たちに選挙権が与えられたのは、大戦から16年も経った1931年(昭和6年)のことだった[2]。第二次世界大戦が勃発すると、日系カナダ人は財産を没収され、抑留を受ける(#抑留)。
第二次世界大戦後、日系カナダ人は抑留から解放されて市民権を取り戻し、一世や二世に投票権が与えられた。
カナダで1950年から1960年代に生まれた人々は三世と呼ばれる。彼らは日本語をほとんど解さないが、日本語を学習している者も存在する。三世の75%は、非日系人と結婚している。ほとんどの四世は、人種的にはかなり入り混じっている。2001年のカナダの人口統計資料によれば、日系カナダ人は明らかに非日系の配偶者と結婚、もしくは同居し、マイノリティ集団を形成している。2001年カナダの25,100カップルのうち、わずか30%が夫婦とも日系のカップルで、70%は非日系の配偶者を持っていた。同じく2001年の統計によれば、カナダの日系人の人口の65%は、カナダの生まれになっている。
なお、1967年以降に渡ってきた移民の第二波は、「新移民」と呼ばれ、都市部に居住していることが多い。
1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃から始まる大東亜戦争(太平洋戦争)のさなかの1942年、日系カナダ人も拘留された。総数20,881人、そのうち75%がカナダ国籍を所持していた。当時、アメリカでも同様の事態が起こった。
戦後、日系カナダ人の財産、不動産は没収され、連邦政府はロッキー山脈以東の地域への移住、又は日本帰国を命じた。その後1970年代後半から1980年代、日系カナダ人抑留に関する記録が公開され、1983年から全カナダ日系人協会(NAJC)によって、損害賠償を請求する運動が開始された。NAJCは、抑留によって生じた経済的な損失を算出すべく、プライスウォーターハウスクーパースにその業務を委託し、1986年に抑留時に4億4,300万ドルの損失があったことを訴えた。この運動は、リドレス運動(redress movement)と呼ばれる。
1988年9月22日、 ブライアン・マルルーニー首相は損害賠償を行うことを決定(1人につき、21,000ドル)。賠償終了の1993年、約18,000人の抑留された生存者があった。
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