Loading AI tools
ウィキペディアから
文郎国(ぶんろうこく[3]、ヴァンランこく[4][5]、ベトナム語:Văn Lang / 文郞)は、半ば伝説とされるベトナム史上の国家。峯州(現在のフート省ヴィエットチー市)[1]を都とした[6]。中心は現在のフート省付近と推定されている[注 2]。ベトナム史上初の国家とされており[5][6]、前2879年建国という考えから、ベトナム人の間では「ベトナム5千年の歴史」という言い回しが存在する。
現在のベトナム北部では、青銅器文化(ドンソン文化)の繁栄[7]を経て、石器や青銅器が発掘されているフングエン文化が興り、その中で文郎国が形成されていったと推定される[8]。
文郎国は鴻龐氏(ホンバン[5][注 3]氏、Hồng Bàng Thị)という氏族が治めたとされ[9]、雄王(フンヴォン[5]、称号であり固有名ではない[1])と呼ばれる代々の支配者[4]によって統治されてきた[6]。伝説によれば、中国神話に見られる炎帝神農の3世孫である帝明の子、禄続(Lộc Tục)が南方に封じられて赤鬼国を治め(涇陽王)、涇陽王と洞庭君の娘の間に崇纜(スンラム、貉龍君、雒龍君、駱龍君とも)を生んだ[10][11][12]。貉龍君(ラク・ロン・クァン)と天仙の女子・嫗姫の間に百越の元となる100人の子が(伝説では卵から)生まれ、その中の長男である支艮が雄王の名を受けた(雄麟王)[6][11][13]。初代雄王は現在のベトナム人の間では建国者としての扱いを受けている[6]。
18代の雄王が文郎国を治めた[14]。グエン・カック・トゥアンの『Thế thứ các triều vua Việt Nam』[注 4]では、雄王18代は涇陽王を初代と数えた下記とされている[15]。なお『ベトナム史略』では、涇陽王から数えると20人の雄王がいたとしている[9]。
各雄王の在位期間は伝承上のもので、日本の初期の天皇と同様に長すぎて非現実的なものが多く、考古学的に信憑性のあるものではない。
文郎国は交阯・朱䳒・武寧・福禄・越裳・寧海・陽泉・陸海・武定・懐驩・九真・平文・新興・九徳・文郎の15の部[1][14]に分かれていたとされる[9]。諸説あるが、『嶺南摭怪』では東は南海、西は巴蜀、北は洞庭湖、南は猢猻精国まで広がっていたという[11]。『ベトナム史略』では南は現在のクアンチ省から北はカオバン省まで広がっていたとしている[9]。
雄璿王の治世の前258年、文郎国は西甌(タイオウ)[注 5]の蜀泮によって滅ぼされた[16][17]。文郎国併合後に蜀泮は安陽王を称し、国号を甌雒[注 6]とした[16][17]。
※日本語文献でベトナム語の綴り・漢字表記が示されていないものは、主筆者の一人であるTonbi koが中国語版Wikipedia及びベトナム語版Wikipediaを参考に補った。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.