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岡崎城は徳川家康生誕の地であり、三河における徳川氏の最重要拠点であった。小田原征伐後、家康が関八州に移封されると、豊臣氏の家臣田中吉政が10万石で入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで吉政は東軍に与して武功を挙げたことから、筑後国柳河藩32万5000石へ加増移封された。
慶長6年(1602年)2月に徳川氏譜代の重臣本多康重(本多彦次郎家)が上野国白井藩より5万石で入った。これが、岡崎藩の立藩である。康重は家康の信任が厚く、3万石加増の5万石で藩主となっている。慶長9年(1604年)に検地を実施し、東海道の整備、城下町の建設などに尽力したが、岡崎は立地条件が悪く、「岡崎の27まがり」と呼ばれて細長い城下町になったという。
第3代藩主本多忠利時代の寛永11年(1634年)、5000石の加増を受ける。正保2年(1645年)6月27日、第4代藩主本多利長は遠江国横須賀藩5万石へ移封された。
その直後の7月14日に三河吉田藩から水野忠善が5万石で入った。忠善は新田5000石を弟の水野忠久に分与している。藩政では慶安2年(1649年)の検地をはじめ、新田開発、支配機構の整備などが行われた。
しかし第2代藩主水野忠春が奏者番・寺社奉行に任じられ、第4代藩主水野忠之は老中として享保の改革に参与した。このように歴代藩主が幕閣に入ったことから出費が激しく、さらに領内での天災も相次ぎ、藩財政は悪化した。このため、第6代藩主水野忠辰は財政再建を目指して保守的な家老を隠居させ、藩政改革を行うが、保守派家老の妨害にあって改革は失敗し、失意に落ちた忠辰は保守派家老によって押込められ、隠居させられる。
第7代藩主水野忠任は、宝暦12年(1762年)9月30日に肥前国唐津藩6万石へ移封された(ただし、父祖伝来300年に及ぶ三河を去ること、唐津は年貢が低い事、唐津では老中などに就任が困難な事により栄転ではない[1])。
代わって下総古河藩より、松平康福が5万4000石で入る。康福は幕閣として幕政に参与していたことから、藩政の治績はほとんどない。明和6年(1769年)11月18日、石見国浜田藩へ移封された。
それと入れ替わる形で本多忠粛(本多平八郎家)が5万石で入る。こうして藩主家は定着した。本多平八郎家の統治時代は、藩財政難に悩まされた時代である。本多平八郎家は本多忠勝以来の名門であったが、相次ぐ移封と石高に較べての家臣の多さから財政は窮乏していた。
第2代藩主本多忠典は中根忠容を家老に登用し、更に服部平兵衛も登用して財政再建を目指し、江戸商人三谷喜三郎の協力を得て緊縮財政政策を実施し、財政改革は一時的な成功を収めた。また、矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行われ、三河木綿が生産されるようになった。しかし天保期に飢饉が続いて一揆も起こり、財政窮乏が再びひどくなった。
第5代藩主本多忠民は再び財政改革を行い、農村有力者と協力して再建に当たった。一方で忠民は京都所司代・老中として幕末の幕政に参与し、公武合体に尽力した。しかしこのため、藩内では佐幕派と尊王派で争い、脱藩者も出る騒動が起こった。
第6代藩主本多忠直時代の明治2年(1869年)に版籍奉還が行われて岡崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となった。
岡崎藩の歴代藩主は全て譜代大名であり、徳川氏より信任が厚く、もしくは縁も深い人物が多かった。
譜代 5万石→5万5000石
譜代 5万石→6万石
譜代 5万400石
譜代 5万石(10万石格)
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