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少弐資能

鎌倉時代の御家人 ウィキペディアから

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少弐 資能(しょうに すけよし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将御家人少弐氏2代当主。

概要 凡例少弐 資能, 時代 ...

略歴

当時武藤氏大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。

資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、の使者の対応にも当たっている[2]文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も九州の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。

弘安4年(1281年)の弘安の役にも老齢の身を押して出陣した。壱岐島の戦いでは元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した[3]。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。大応国師南浦紹明[4]は、導師として太宰府横岳崇福寺において葬儀を執り行った。

なお、仁治3年(1242年)に、円爾(聖一国師)が博多承天寺[5] を開く際に、資能は寺地数万坪を寄進した。

太宰府市観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡[6]のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼墓と伝えられる五輪塔と少弐資能の供養塔(宝篋印塔)が並んで建っている。

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脚注

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出典

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