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小石 栄一(こいし えいいち、1904年9月7日 - 1982年10月21日[1])は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。後年、作詞も手がけた。
1904年(明治37年)9月7日、福岡県鞍手郡に生まれる[1]。
東京に移り、1922年(大正11年)、南アメリカへ行く志をもって旧制・拓殖大学に入学するが、志望が果たせなかったために2年次に中途退学する[1]。関東大震災後に関西に移り、1924年(大正13年)、東亜キネマ甲陽撮影所に入社する[1]。同社では、俳優として端役で出演、脚本見習いの修行をした[1]。1926年(大正15年)4月に衣笠貞之助が設立した衣笠映画聯盟に参加、第1作『狂つた一頁』のチーフ助監督を務める[1][2]。同作は5月一杯には撮り終わり、小石は、マキノ・プロダクション御室撮影所でオリジナル脚本が採用され、高見貞衛が監督して『灰色の街』として映画化、脚本家としてデビューした[2]。
マキノでは、翌1927年(昭和2年)、『灰色の街』の監督・高見貞衛と共同名義で『学生五人男 闘争篇』を監督、同年6月3日に公開され、満22歳で映画監督としてデビューした[1][2]。高見の次作『敗残者』にオリジナルシナリオを書き下ろした後、監督第2作『闘争曲線』を自らのオリジナルシナリオで演出した[2]。1928年(昭和3年)、監督作『光線を捕へた男』、『女心紅椿』を発表した後、松竹下加茂撮影所に移籍、売出し中の新スター林長二郎を主演に『怪盗沙弥麿』を監督する[1][2]。
1930年(昭和5年)以降、市川右太衛門プロダクション、片岡千恵蔵プロダクションを渡り歩き、1936年(昭和11年)、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に入社する[1][2]。翌1937年(昭和12年)、日本軍の下士官として大陸へ出征する[1]。1939年(昭和14年)には同撮影所に復帰する。1942年(昭和17年)、同社が戦時統制により他社と合併して大映となり、同撮影所は閉鎖となり、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に移籍する[2]。
第二次世界大戦後も大映東京撮影所に所属したが、1954年(昭和29年)、東映東京撮影所に移籍する[1][2]。1962年(昭和37年)、『歌う明星 青春がいっぱい』を監督したのを最後に退社、自らのプロダクションを設立した[1][2]。
特筆以外はすべて監督である[2]。
すべて作詞である[3]。
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