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戦前日本の官立学校 ウィキペディアから
学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省の外局として設置された国立学校。華族の子弟の教育機関として設立され、華族の子弟は無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。1947年(昭和22年)に廃止・民営化されたが、新たに私立学校として「学校法人学習院」となり再出発した。
学習院は維新以前設くる所の学館にして中廃せしものなるを茲に初めて之を開黌せしなり
—学習院ヲ開ク(明治元年03月19日)[1]
弘化4年(1847年)3月、京都に公家の教育機関として開講した当初は「学習所」と称したが、嘉永2年(1849年)4月に孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。
この名称が論語冒頭の「學而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている[7]。
「 |
子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。 |
」 |
—『論語』学而第一の一(「子曰學而時習之章」より) |
財団法人学習院、学校法人学習院のもとでの歴代院長は学校法人学習院の当該節を参照。
代 | 氏名 | 就任時期 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 立花種恭 | 1877年10月17日 - 1884年5月24日 | 三池藩第8代藩主、子爵 |
第2代 | 谷干城 | 1884年5月24日 - 1885年 | 陸軍中将、初代農商務大臣、子爵 |
第3代 | 大鳥圭介 | 1886年4月10日 - 1888年7月13日 | 枢密顧問官、男爵 |
第4代 | 三浦梧楼 | 1888年11月5日 - 1892年3月25日 | 陸軍中将、子爵 |
第5代 | 岩倉具定 | 1892年3月26日 - 10月20日 | 宮内大臣、公爵 |
第6代 | 田中光顕 | 1892年10月20日 - 1895年3月19日 | 陸軍少将、内閣書記官長、宮内大臣、子爵 |
第7代 | 近衛篤麿 | 1895年3月19日 - 1904年1月2日 | 貴族院議長、公爵 |
第8代 | 菊池大麓 | 1904年8月4日 - 1905年10月12日 | 京都帝国大学総長、男爵 |
第9代 | 山口鋭之助 | 1906年1月18日 - 1907年1月31日 | 京都帝国大学教授、物理学者 |
第10代 | 乃木希典 | 1907年1月31日 - 1912年9月13日 | 陸軍大将、伯爵 |
事務取扱 | 白鳥庫吉 | 1912年9月16日 - 11月25日 | 東京帝国大学教授、東洋史学者 |
第11代 | 大迫尚敏 | 1912年11月25日 - 1917年8月25日 | 陸軍大将、子爵 |
第12代 | 北条時敬 | 1917年8月25日 - 1920年4月5日 | 宮中顧問官 |
第13代 | 一戸兵衛 | 1920年5月29日 - 1922年11月3日 | 陸軍大将、教育総監 |
第14代 | 福原鐐二郎 | 1922年11月3日 - 1929年10月28日 | 東北帝国大学総長 |
第15代 | 荒木寅三郎 | 1929年10月28日 - 1937年4月6日 | 京都帝国大学総長 |
第16代 | 野村吉三郎 | 1937年4月6日 - 1939年9月25日 | 海軍大将 |
第17代 | 山梨勝之進 | 1939年10月7日 - 1946年10月5日 | 海軍大将 |
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