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初代は平安時代[1]、承平元年(931年)に建立されたと伝えられる。下総付近で朝廷に対して反乱を起こした平将門が、新皇を名乗りこの地の北方に京を模した自らの都を構えた際、京の南の奈良の東大寺の大仏を模して建立したもので、銅製だったとされる。
江戸時代中期の儒学者中村国香(1710年 - 1769年)が著した『房総志料』によれば、当時の奈良村には銅製の蘆舎那の露仏が存在していた。
一、市原郡の人語りしは、奈良村といふ所の山中人跡まれなる処に、銅像の高丈餘の蘆舎那の露佛、儼然として叢間に安置す。榛荊を發き拝するに、基砌半は土に陷り、銅上盡青衣を生ず。凡幾星霜を経たりといふ事しらずと。按に、承平中、平将門東百官などいふ事置きし日、南都の銅佛に摹倣せしにや。しかれども、自立の日久しからざれば、精舎を建るに暇なしと見へたり。事實の傳はらざるは、後人其僣竊を惡み、且、國禁をはゞかれるにや。いぶかし。 — 『房総志料』[2]
その後何度か作り直され、現在のものは文化元年(1804年)に建立された等身大(像高約1.7m)の石製立像である[1]。
2011年3月の東日本大震災では像が台座から落ちて損壊した[3]。しかし、市と住民が費用を折半して修復されることになり[4]、11月に修復が完了した[1]。
1974年(昭和49年)6月10日は市原市の名勝に指定されている[5][6]。史実としての裏付けに欠けるため、史跡ではなく名勝として指定された[7]。
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