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北宋の2代皇帝。趙弘殷の三男 ウィキペディアから
太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅[注釈 1]に改めた。
太宗 趙光義 | |
---|---|
北宋 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 北宋 |
在位期間 |
開宝9年10月21日 - 至道3年3月29日 (976年11月15日 - 997年5月8日) |
都城 | 開封 |
姓・諱 |
趙匡義 趙光義(960年改名) 趙炅(976年改名) |
諡号 | 至仁応道神功聖徳文武睿烈大明広孝皇帝 |
廟号 | 太宗 |
生年 |
天福4年10月7日 (939年11月20日) |
没年 |
至道3年3月29日 (997年5月8日) |
父 | 趙弘殷 |
母 | 昭憲太后杜氏 |
后妃 | 明徳皇后李氏 |
陵墓 | 永熙陵 |
年号 |
太平興国 : 976年 - 984年 雍熙 : 984年 - 987年 端拱 : 988年 - 989年 淳化 : 990年 - 994年 至道 : 995年 - 997年 |
子 | 趙恒(真宗) 英宗 (趙曙、玄孫) |
後晋の天福4年(939年)に浚儀県の官舎で、趙弘殷の三男として生まれる。子供のころから傑出しており、学問を好んだ。父の趙弘殷は趙匡義のために、淮南を征伐した際、州や県を占領しても財貨には一切目もくれず、古書を探して趙匡義に贈ったという。兄の趙匡胤が後周の将軍であった頃から常に協力し続け、趙普らと主導した陳橋の変の際に趙匡胤を擁立する時も、中心となって趙匡胤の説得に当たった。
太祖が即位後、晋王に封じられ、序列は宰相より上に置かれた。太祖が親征を行うと、大内都点検(近衛軍の将軍にあたる)や東都(都の開封のこと)留守に任じられるなど、太祖の右腕として重責を担った。太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の次男の趙徳昭を自殺させ、太祖の四男の趙徳芳が太平興国6年(981年)に不可解な死を遂げた後に自らの子の趙恒を太子としたことは、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
太平興国3年(978年)には独立勢力であった泉州の清源軍節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し、翌太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼし、中国の再統一を達成した。その余勢を駆って遼から燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高梁河において敗れ、開封に撤退した。また太平興国5年(980年)には前黎朝大瞿越の黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
内政面では太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
『宋史』は、太宗の治世中に陳洪進・銭俶らの群雄を統合し、北漢を討って中華をほぼ統一したことを評価している。その治世中には北漢や遼、ベトナム、西夏などの相次ぐ戦役や、黄河の決壊や蝗害などの天災が起こったものの、民衆が反乱を起こさなかったのは、太宗の倹約と慈を旨とした政治のおかげだとしている。
ただ、本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、太祖の次男の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったことなどは非難されてもやむを得ないことだとしている。また、太祖の死と自身の帝位継承、その後に起きた太祖の四男の趙徳芳や実弟の趙廷美への対応から千載不決の議と呼ばれる議論が起きている。
『水滸伝』の宋江のモデルは太宗であるという説が古くからあり、森鷗外が『標新領異録』で触れている他、東京大学教授の大塚秀高も同様の説を唱えている。
自分で詰碁を作るほどの囲碁好きだった。棋待詔の賣玄(賣元)には三目を置いて打ったが、賣玄は常に1目負るように調整していたため、賣玄に今度負けたら鞭で打つと言ったところ、賣玄はジゴ(引き分け)にした。そこで太宗は、賣玄が勝てば緋衣を与え、勝てなければ池に投げ込むと言った。すると今度もジゴになったが、賣玄を池に投げ込ませようとすると、賣玄は手にアゲハマが残っているのを見せたという話が「湘山野録」に記されている。
雍熙元年(984年)3月[1][2]、太宗は入宋した日本の使者である僧の奝然を厚遇し、紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し(万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して宰相に次のように語った[3]。
此島夷耳、乃世祚遐久、其臣亦継襲不絶、此蓋古之道也。中國自唐李之乱、寓縣分裂、梁周五代享歴尤促、大臣世冑、鮮能嗣続。朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸。建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計、使大臣之後世襲禄位、此朕之心焉。
「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(朱全忠による禅譲)により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、その存続期間が短くており、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳はたとえ太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせるのが朕の願いである」
太宗は、皇帝のみならず臣下も下克上なしに続く王朝(理想上における太古の王朝)を目指していたことがわかる。
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