大来皇女
日本の飛鳥時代の皇族 ウィキペディアから
日本の飛鳥時代の皇族 ウィキペディアから
大来皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)で、同母弟に大津皇子がいる。伊勢斎宮。
斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯(おおく)の海の上(現・岡山県瀬戸内市の沿岸。瀬戸内市はかつての邑久(おく)郡)を通過している時に誕生した。『日本書紀』に、天智天皇6年(667年)の2月27日に斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬し、大田皇女をこの陵の前の墓に埋葬したという記述があるので、2月27日以前には、大来皇女と大津皇子の母の大田皇女は薨去したと思われる。
大来皇女は天武天皇2年(673年)4月14日に父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)として泊瀬斎宮(在所不明)に入斎院(『神宮要綱』は同日卜定と伝える)、天武天皇3年(674年)10月9日に伊勢国に下向した。天武天皇4年(675年)の2月13日には、十市皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。朱鳥元年(686年)4月27日、多紀皇女・山背姫王・石川夫人が伊勢神宮に遣わされた。同年の10月3日に、大津皇子が謀反人として死を賜った後、11月16日に退下し、都に帰った。大宝元年12月27日(702年1月)に薨去。
三重県名張市の夏見廃寺(国の史跡)は、『薬師寺縁起』に見える大来皇女の発願により神亀2年(725年)に完成した昌福寺とされている。
『万葉集』に謀反人として倒れた同母弟の大津皇子を想う歌を6首残している。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.