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日本の物理学者 ウィキペディアから
坂田 昌一(さかた しょういち、1911年(明治44年)1月18日 - 1970年(昭和45年)10月16日)は、日本の物理学者。元名古屋大学教授。湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。
東京市麹町区(東京都千代田区)で生まれる。旧制甲南高等学校を経て、1933年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業する。理化学研究所、大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て1942年、名古屋帝国大学教授となる。湯川の中間子論の第2から第4論文の共著者である。
1942年、井上健と共に核力の起源となる中間子と当時宇宙線中に発見された中間子との違いを説明するために、二中間子論を提唱した。これは1948年にπ中間子が発見されたことにより証明された。
1948年、井上健、高木修二および原治と共に、電子の作る電場を量子化する際に電子の質量が無限大に発散するという量子電磁力学の問題を解決するため、凝集力場 (cohesive field) という新しい場によって質量の無限大を打ち消すという混合場理論(C中間子理論)を発表した。しかし、その後の検証により、質量の発散は打ち消すが真空偏極の発散は打ち消さないで残ることがわかった[1]。これは、後に朝永振一郎が繰り込み理論を完成させたことによって解決をみた。
1955年、中性子・陽子・ラムダ粒子が最も基本的な粒子とし他のハドロンはこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるというハドロンの複合模型(坂田模型)を発表した。これは、基本粒子をさらに一つ増やした名古屋模型(1960年)および新名古屋模型(1962年)へと改良が加えられ、一定の成功を収めた。その後、この発展形であるマレー・ゲルマンらのクォークモデルの登場により、これらの模型は否定されることになった。ちなみに坂田はクォークモデルを全面的に支持し、むしろ提唱者のゲルマン自身がクォークモデルを仮定の理論としたことに対して否定的であった[2]。
1962年には、牧二郎・中川昌美と共にニュートリノ振動を予測するポンテコルボ・牧・中川・坂田行列(PMNS行列)を発表した。
※出典はRobert Marc Friedmanの The Politics of Excellence: Behind the Nobel Prize in Science.[3]。
「坂田模型」は、マレー・ゲルマンとジョージ・ツワイクのクォークモデルに影響を与えたが、1969年のノーベル物理学賞はマレー・ゲルマンにのみ授与された。その後、ノーベル物理学委員会のメンバーであるイヴァー・ウォーラー (Ivar Waller) は、坂田が受賞できなかったことに遺憾の意を表明した。
1970年9月、湯川秀樹はウォーラーに、坂田がノーベル賞に推薦された時点で病に伏していたことを手紙で懇切丁寧に伝えた。その後、坂田の容体は著しく悪化し、3週間後に死亡した。湯川は、坂田に授賞がなされていれば多くの栄誉と励ましがもたらされていただろうとウォーラーに伝えた。湯川はその後、ノーベル委員会に慰めを与えるため、日本の主な素粒子物理学者の名において、委員会が坂田の優れた点をどのように考えていたかを知りたいと尋ねている。
選考から50年以上後にノーベル賞委員会が公表した1969年の候補者リストに坂田の名はなく[4]、没年となった翌1970年に湯川秀樹の推薦で西島和彦・中野董夫とともに候補となったのが唯一のノミネートだった[5]。
クォークは階層の一つに過ぎず、さらにその下部構造が無限に存在するという物質の「無限階層論」を提唱していた。
1964年には毛沢東と対面したとき、その無限に続く構造としての素粒子に「層子という名前がよい」と毛が提案したと言われる。毛は自国の物理学者に、昌一の理論に基づいて層子論を研究するように指示したと言われる[6]。
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