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古アッシリア時代
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古アッシリア時代はアッシリアの歴史における時代区分。初期アッシリア時代に続く時代であり、時間的範囲は都市アッシュルがプズル・アッシュル1世(在位:前2025年頃[注釈 4])の下で独立した都市国家となってから、アッシュル・ウバリト1世が即位(前1363年頃[注釈 5])し、アッシリアが巨大な領域国家となるまでの期間である。アッシュル・ウバリト1世以降は中アッシリア時代とされている。古アッシリア時代は明確なアッシリア文化の発展が裏付けられる最初期の時代である一方[7][8]、地政学的には激動の時代で、アッシュルは数度にわたって外部の勢力に支配されたりその宗主権の下に置かれたりした。この時代にはまた、アッカド語のアッシリア方言が明確な形をとって登場し、独自のアッシリア暦が使用され、アッシュル市が一時的に国際交易の拠点になった[9]。
古アッシリア時代 ālu Aššur | |||||||||
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前2025年頃–前1364年頃[注釈 1] | |||||||||
首都 | アッシュル[注釈 2] | ||||||||
共通語 | アッカド語、シュメル語、アムル語 | ||||||||
宗教 | 古代メソポタミアの宗教(英語版) | ||||||||
統治体制 | 君主制 | ||||||||
重要な王たち | |||||||||
• 前2025年頃 | プズル・アッシュル1世 | ||||||||
• 前1974年頃-前1935年頃 | エリシュム1世 | ||||||||
• 前1920年頃-前1881年頃 | サルゴン1世 | ||||||||
• 前1808年頃-前1776年頃 | シャムシ・アダド1世 | ||||||||
• 前1700年頃-前1691年頃 | ベル・バニ | ||||||||
• 前1521年頃-前1498年頃 | プズル・アッシュル3世 | ||||||||
• 前1390年頃-前1364年頃 | エリバ・アダド1世 | ||||||||
立法府 | アールム(Ālum) | ||||||||
時代 | 青銅器時代 | ||||||||
前2025年頃 | |||||||||
• シャムシ・アダド1世の征服 | 前1808年頃 | ||||||||
• シャムシ・アダド1世の王国の崩壊 | 前1776年頃-前1765年頃 | ||||||||
• アダシ王朝(英語版)の創立 | 前1700年頃 | ||||||||
• ミッタニへの従属 | 前1430年頃-前1360年頃 | ||||||||
• エリバ・アダド1世の治世の終了 | 前1364年頃[注釈 3] | ||||||||
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現在 | イラク |
古アッシリア時代のアッシュルは基本的に都市国家であり政治的・軍事的な影響力は弱かった。強力な君主として君臨した後代のアッシリア王たちとは対照的に、古アッシリア時代の王はアッシュル市の行政機構における第一人者の役人に過ぎず、通常はšar(王)ではなくIšši'ak Aššurという称号を用いていた。これは「(神)アッシュル(の代理たる)副王/総督」と訳せる。王たちはアッシュル市の実際の行政主体であるアールム(Ālum、民会)を主宰した。このアールムはアッシュルの住民の中の有力者で構成されていた[10]。軍事力・政治力に欠けてはいたが、アッシュルはエリシュム1世(在位:前1974年頃-前1935年頃)の時代から前19世紀末まで、東はザグロス山脈から西はアナトリアまで延びる大規模な交易ネットワークの中心であり、アッシリア人はキュルテペに代表されるような商業植民地を交易路上の各地に建設した。
プズル・アッシュル1世(在位:前2025年頃)によって創立された最初のアッシリア王家は前1808年頃にアムル人(アモリ人)の征服者シャムシ・アダド1世によってアッシュル市が征服され終焉を迎えた。シャムシ・アダド1世はシュバト・エンリル市を拠点として「上メソポタミア王国」とも呼ばれる王国を建設したが、この王国は前1776年頃の彼の死と共に崩壊した。シャムシ・アダド1世死後、中アッシリア時代が始まるまでの出来事についてはよくわかっていないが、まずはアッシュルと周辺地域、そしてバビロン第1王朝、マリ、エシュヌンナなどの帝国・諸国との間で数十年にわたって頻繁な紛争が繰り広げられたと見られ、またアッシュル内部の権力を巡っての争いがあったと思われる。この争いを経て、アッシュル市はアダシ王朝(英語版)(前1700年頃)の下で独立した都市国家として再建された。その後アッシュルは前1430年頃にミッタニ(ミタンニ)王国の属国となったが、前14世紀にミッタニが隣国ヒッタイトに対して劣勢に立たされるようになると自立し、一連の戦士王たちの下で巨大な領域国家へと姿を変え始めた。
キュルテペのアッシリア人の商業植民地で発見された22,000枚以上に達する粘土板文書の膨大な楔形文字の記録を通じて、古アッシリア時代の文化・言語・社会について多くの情報を集めることができる。他の古代オリエントの社会と同様、古アッシリア時代には奴隷制が敷かれていたが、文書中に見られる奴隷にまつわる用語の使用法の混乱から、奴隷と見られる人々の全てではないにせよその多くが実際には自由人の家臣(free servants[訳語疑問点])であった可能性がある[11]。男性と女性は異なる義務と責任を持っていたが、程度の差はあれ同様の法的権利を持っており、両者に財産の相続、遺言の作成、離婚手続きの開始、交易への参加が認められていた[12]。古アッシリア時代の信仰における主神は後の時代と同じようにアッシリアの国家神アッシュルであった。この神は恐らく、初期アッシリア時代よりも前に都市アッシュル自体が擬人化されて誕生した神である[13]。