南野知惠子
日本の看護学者、政治家 ウィキペディアから
日本の看護学者、政治家 ウィキペディアから
南野 知惠子(のおの ちえこ、1935年〈昭和10年〉11月14日 - )は、日本の看護学者、政治家。勲等は旭日大綬章。「惠」ではなく「恵」を用いて南野 知恵子とも表記される。
山口大学医療技術短期大学部看護学科教授、日本赤十字看護大学看護学部教授、自民党参議院議員(3期)、参議院文教科学委員長、法務大臣(第74・75代)、内閣府特命担当大臣(青少年育成及び少子化対策担当)、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任。
1935年、満洲国の竜江省斉斉哈爾市(現:中華人民共和国チチハル市)にて生まれ[1]、1946年に日本に引き揚げる[2]。その後は鹿児島県にて育つ。1954年3月、鹿児島県立甲南高等学校卒業[1]。1958年3月、大阪大学医学部附属助産婦学校卒業[1]。
看護学校卒業後、大阪厚生年金病院に勤務したのち、イギリスに留学した。看護婦や助産婦の資格を取得し、帰国後は大阪市内の助産院や鹿児島県の県立病院などで勤務した。[1][3]
その後、東海大学医学部付属病院看護部次長と、東海大学医療技術短期大学看護学科助教授を兼任した。以来、大阪大学医療技術短期大学部看護学科助教授、山口大学医療技術短期大学部看護学科教授、日本赤十字看護大学看護学部教授などを歴任した。[1][3]
1992年、第16回参議院議員通常選挙にて自由民主党から比例区に立候補し、初当選。以降連続3回当選する。自民党の党内では、清和政策研究会に所属した。性同一性障害者性別取扱特例法の成立に尽力した。小泉政権下では、第2次小泉改造内閣にて法務大臣と内閣府特命担当大臣(青少年育成及び少子化対策担当)として初入閣。法務大臣に在任中の2005年、1名の死刑囚に対する死刑執行を命令した。その後、第3次小泉内閣でも、再び法務大臣と内閣府特命担当大臣(青少年育成及び少子化対策担当)に任命された。[1][3]
これまでの業績が評価され、「多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たすとともに、法務大臣等として国政の枢機に参画した」[4]功労により、2010年11月に旭日大綬章を受章した。
法務大臣在任中、国会答弁・記者会見に当たっては即答を避け質問の度に官僚側に相談するという慎重な対応場面が多く見られた(看護師であり本来は厚生族)。[要出典]
(単行本)
(論文)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.