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鎌倉時代中期の武士。金沢文庫創設者 ウィキペディアから
北条 実時(ほうじょう さねとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏一門。金沢流北条氏の実質初代で、金沢 実時(かねさわ さねとき)とも。父は北条実泰。母は天野政景の娘。
北条実時像(国宝)/称名寺所蔵 | |
時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 元仁元年(1224年) |
死没 | 建治2年10月23日(1276年11月30日) |
別名 | 金沢実時(金澤実時) |
戒名 | 称名寺正慧 |
墓所 | 横浜市金沢区の称名寺 |
官位 |
掃部助、宣陽院蔵人、従五位下、 越後守、従五位上、贈正五位 |
幕府 | 鎌倉幕府小侍所別当、引付頭人、評定衆 |
主君 | 藤原頼経→頼嗣→宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:北条実泰、母:天野政景の娘 |
兄弟 | 実時、小山長村妻、唐橋通時妻、大江広時妻、藤原忠嗣妻、朝氏妻、江間越後四郎妻 |
妻 | 正室:北条政村の娘、他 |
子 | 実村、篤時、顕時、時直?、実政、時国(養子、名越時長の子)[注釈 1]、女子(長井宗秀妻)、女子(時長の子・名越長頼の妻)、女子(飛鳥井雅有妻) |
天福元年(1233年)、10歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において元服[2]、烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)[3][4]。翌文暦元年(1234年)に出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は2人に対し「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた(『吾妻鏡』)。以後3度にわたって同職を務める。
4代執権北条経時、5代北条時頼政権における側近として引付衆を務め、宝治元年(1247年)の宝治合戦では御所の守護を担当している。建長5年(1253年)には評定衆を務める。文永元年(1264年)には得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。
文永の役の翌建治元年(1275年)には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住。蔵書を集めて金沢文庫を創設する[5]。翌建治2年(1276年)に死去、享年53。
文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子実政にあてた訓戒状も知られる。
※ 日付は旧暦(1915年(大正4年)の記事を除く。)
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