Loading AI tools
中華民国生まれのアメリカ合衆国の詩人 ウィキペディアから
北島 (ベイダオ、ほくとう/英: Bei Dao)、1949年8月2日 - )は、中華民国北平 (現在の中華人民共和国北京) 生まれでアメリカ合衆国の詩人、翻訳家。簡体字は北岛、英語表記はBei Dao。ペイタオとも呼ばれる[4]。中国語の本名は趙 振開 (ヂァオヂェンカイ)[5]。香港中文大学教授。ペンネームは石黙、艾珊など[5]。
1949年8月2日北平に生まれる[6]。子どものころ父親から中国の古典詩詞を暗唱させられた。家では正統的本の他、禁書の類も読みふけった[7]。北京第四中学[注釈 1]在学中、1966年の文化大革命開始により学業を中断され、建設現場の肉体労働者として10年余りを過ごした[5]。文革初期は紅衛兵の積極分子であった[8]。1970年、21歳で詩作を開始[8]。文革が収束した後の1978年、同じく詩人の芒克、画家の黄鋭らと地下文学雑誌『今天』を創刊し、主編を務めた(『今天』は1980年停刊処分。1990年にノルウェーで、1998年には日本で復刻)。後に『新観察』、文学雑誌『中国』の編集に携わり、1986年『北島詩集』出版[5]。いわゆる「朦朧詩派」[注釈 2]の中心的存在として活躍し、当時の若者世代に支持を得た[9]。
またエーディト・ショーデルグランなど北欧詩の翻訳も手掛け[10]、1987年には英国のダーハム大学で客員研究員を務めた。1988年末に帰国、1989年2月に政治犯釈放を求めた公開書簡を公表[5]。同年4月招かれて米国へ出国し、ドイツをへてノルウェーのオスロ大学に籍を置く[11]。1990年米国PENクラブの自由写作賞 (Freedom to Write Award) を受賞し、その賞金で『今天』をオスロで復刊、以降編集長を務める[5][6]。この年、芒克、黄鋭と共に日中国際芸術祭に参加のため来日した。またスウェーデンのストックホルムに滞在後、1991年までデンマークのアーフス大学で教鞭をとる[11]。1992年、オランダのライデン大学の客員長期滞在作家となる[11]。1993年米国へ移り、東ミシガン大学の客員教授となり、翌1994年ミシガン大学国際センター所属外国人芸術家となる[11]。1995年カリフォルニア州に移り、カリフォルニア大学デービス校客員教授を2年務める[11]。このころ中国籍のまま市民権も得た[5]。
2000年、パリのポンピドゥー・センター所属の外国人芸術家となり、また米国ウィスコンシン州のベロイト・カレッジで教鞭をとり、大学所属の長期滞在詩人となる[11]。その後ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校、カリフォルニア大学バークレイ校、同デービス校、アラバマ大学、ノートルダム大学でも教鞭をとる[11]。
彼の詩「回答」は、1976年の北京でのデモから、2021年1月武漢で内部告発をした医師李文亮の追悼まで、中国の民主化運動の賛歌となっている[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.