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前野五郎

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前野 五郎(まえの ごろう、弘化2年(1845年) - 明治25年(1892年4月19日)は、幕末武士新選組および靖兵隊の平隊士・伍長歩兵取締役。明治時代には実業家となった。庸範(つねのり)。別名に平野 五郎(ひらの ごろう)[2]

概要 凡例前野五郎, 時代 ...

生涯

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里塚霊園

幕末

弘化2年(1845年)、阿波徳島藩上士である前野自敏(前野健太郎)の次男に生まれる[3]

慶応2年(1866年頃に京都で入隊し、この時点では平隊士として見廻組並御雇の格を受けていた[3]。慶応3年(1867年6月に新選組が幕臣に取り立てられた際も同じく平隊士のままであった。9月、新選組による最後の隊士募集の際、土方歳三井上源三郎に従って江戸に下る。そして新入隊士を率いて11月に京都に戻った[3]12月7日天満屋事件の際には斎藤一らと共に紀伊和歌山藩藩士三浦休太郎警護した[4]

慶応4年(1868年1月鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北し、新選組は江戸に戻る[3]。五郎はこの際、2月18日に江戸深川で林信太郎ら数人と一緒に遊郭に登楼して3日間飲み続けたという[3]2月末、新選組が甲陽鎮撫隊と称して甲斐勝沼で官軍と戦うが江戸へ敗走した(甲州勝沼の戦い[3]

3月11日永倉新八原田左之助近藤勇や土方歳三らとの確執から袂を分かつと[3]、五郎は林ら7名と共に永倉に従った。この際に永倉・原田・芳賀宜道らにより靖兵隊(靖共隊)が結成され、五郎は伍長[5]、歩兵取締[4]に就任した[3]8月21日北関東各地を転戦した永倉や芳賀が下野高原宿で靖兵隊を五郎や林に預けて会津藩に向かったため、五郎らもを率いて会津に向かうが、8月30日会津西街道大内峠で北上する官軍と戦って敗北[3]。なおも戦闘を続行した林に対し、五郎は薩摩藩にいた知己の加納鷲雄(加納道之助)を頼って官軍に降伏し、薩摩藩付属となった[6]。ただし江戸から脱走したとの記録もある[7]

明治時代

戊辰戦争後の明治時代になると、五郎は明治2年(1869年9月北海道で開拓付属となり[3]同じ阿波出身開拓判官岡本監輔の元で働く[要出典]樺太赴任したが、2年後の2月病気理由辞職する[3]。病気が癒えると札幌に出て遊郭を営む[3]。しかし明治5年(1872年)に娼妓解放令が出されたため、名称を貸座敷屋に改めている[3]。ただし実質的には女郎遊女屋を経営していたようであり、建設労働者向けの慰安のための女郎屋を経営し、相当な収入を得ていたとされる[3]明治12年(1879年)、妻・富久(フク)との間に三男が生まれ、尊敬する岡本監輔の幼名をもらって前野文平と名付けた。[要出典]明治24年(1891年)、千島漁猟開発事業組合を設立する[3]

明治25年(1892年)4月19日、択捉島に狩猟に出かけたとき橋から転落し、その際に手にしていた銃が暴発して即死した[3]享年48[3]。永倉新八の遺稿「名前覚」では、五郎は事故死ではなく殺害されたとされているが[注釈 1]、誰に殺されたかや永倉がその情報を入手した経緯は不明である[3]

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人物

前野五郎は剣術の腕は普通だが、刀剣鑑定の目利きや馬術に関しては相当なもので、刀の鑑定眼は新選組第一だったと記録がある[8]。また、かなりの酒豪であったという。

氏族

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前野五郎が使用した家紋
丸に違い鷹の羽

本姓は藤原か良岑か

前野五郎のについては、徳島藩士の系図が書かれた成立書によれば本姓藤原であるとされている[9]。だが本姓が藤原である前野氏が使用した家紋は「丸に違い鷹の羽」ではなかった。さらに、前野五郎の先祖である前野宗高良岑氏の末裔で、もしそれが事実であれば、本姓は藤原ではなく良岑となる。

前野氏

前野氏(良岑氏流前野氏)は、桓武天皇皇子良岑安世始祖とする良岑氏の系統で、良岑高成(原高成)の子である前野高長もしくはその曽孫である前野時綱尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に移り住んで前野を名乗ったのが始まりとされている[10][11][12]。五郎の先祖とされる前野自性の父・前野宗高は良岑氏流前野氏系坪内氏という前野氏の派生氏族家族であったが、宗高の祖父は前野宗康で前野家本家の12代目当主であり、紛れも無く前野氏の系統である[12]

脚注

参考文献

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