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1900-1953, 洋画家 ウィキペディアから
東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。 しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。
1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。戦後画壇における政治的な活動でも知られる。 代表作は「歌声よ起これ(文化を守る人々)」(1948年)、「ラ・ペ(平和)」(1952年)など。墓所は多磨霊園。
なお、彼に関しては陸軍美術協会理事長として戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任の糾弾を繰り広げた件が著名であるが、近年出版された富田芳和「なぜ日本はフジタを捨てたのか?」によると藤田と内田の関係は従来から言われてきたような単純なものではなかったことが明かされている。内田は先輩として藤田を尊敬しており、そんな内田を藤田も可愛がっていた。
占領下の日本で、画壇も戦争責任がGHQから追及される恐れが出てきて、内田は断腸の思いで藤田が全責任を負ってくれるよう頭を下げ、これを受けて藤田はフランスに出国することになったのが真相であるとされる。しかし、ある種のスケープゴートだった事から藤田は失意と嫌悪の中でフランスへ移住。後年に至るまで「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語っている[1]。
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