Loading AI tools
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・御家人。下野国安蘇郡佐野庄に土着した下野佐野氏初代。子に佐野景綱。 ウィキペディアから
佐野 基綱(さの もとつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野氏初代。通称は佐野太郎。または足利基綱とも呼ばれる。
本宗家である伯父・俊綱とその子・忠綱が、平家方の傘下として常陸国の志田先生義広(頼朝の叔父)と盟約したのに対し、庶家である基綱は父・有綱と共に早くから源氏に味方した。これはどちらか一方につく事を避け、一族の中で敵味方に別れることなるものの、源平二手に分かれて氏の存続を政略とした結果ともされる[2]。
寿永2年(1183年)2月23日、親族の小山朝政と結び、志田義広の軍勢と野木宮で戦い、これを撃破し本宗家の足利父子を敗走させた(野木宮合戦)。同年9月7日に、頼朝の厳命を受けた足利義兼・和田義茂らが渡良瀬川に陣営を取った。足利父子の譜代郎党の桐生六郎の裏切りによって、本宗家がついに滅亡した。以降の基綱は、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した[3]。文治3年(1187年)に、義経の武将・多田行綱(多田源氏)から、格別な弓矢を給わったという。文治5年(1189年)7〜9月、奥州合戦に参陣する。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.