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二条為子
鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。尊治親王(後醍醐天皇)の皇太子妃・最初の正妃。贈従三位。遊義門院女房、後二条天皇典侍 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。贈従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも[注釈 1]。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。
概要 二条為子, 在位 ...
二条為子 | |
---|---|
日本国皇太子妃 | |
![]() | |
在位 | 徳治3年(1308年) - 応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年) |
身位 | 贈従三位 |
出生 |
不明 |
死去 |
応長元年8月12日(1311年9月24日) もしくは正和元年8月12日(1312年9月13日) |
配偶者 | 皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇) |
子女 | 尊良親王、瓊子内親王、尊澄法親王(のちの宗良親王) |
家名 | 藤原北家御子左流二条家 |
父親 | 二条為世 |
役職 |
遊義門院(姈子内親王)女房 後二条天皇典侍 |
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はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王(天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世・近世・近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。
その歌風は「やさしき歌」と評され、『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に計71首が入集した。後世、観世信光の能『紅葉狩』(室町時代中期)などに影響を与えた。羇旅歌(きりょか、旅情の歌)にも優れ、隅田川を題にした歌が『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)に撰出された。歌のほか、漢学の素養もあり、また書にも秀でるなど、万能の人であったことから、「名誉の女房」(「偉大なる女性」)と称えられた。