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ヴィーシュホロド(ウクライナ語: Вишгород, ラテン文字転写: Vyshhorod)は、ウクライナのキーウ州ヴィーシュホロド地区にある市である[1]。同地区の中心地であり、人口は32,396人(2021年推計)[2]。1962年に都市型集落、1968年に市となった。歴史学的文献にはヴィシゴロド、ヴィシェゴロド等と表記しているものもある。
ヴィーシュホロド Вишгород | |
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座標 : 北緯50度35分14秒 東経30度29分20秒 | |
歴史 | |
建設 | 946年 |
都市型集落 | 1962年 |
市制施行 | 1968年 |
行政 | |
国 | ウクライナ |
州 | キーウ州 |
ラヨン(地区) | ヴィーシュホロド地区[1] |
フロマーダ | ヴィーシュホロド・フロマーダ[1] |
市 | ヴィーシュホロド |
市長 | Решетняк Віктор Олександрович |
地理 | |
面積 | |
市域 | 8,7 km2 |
人口 | |
人口 | (2021年現在) |
市域 | 32,396人 |
備考 | 推計[2] |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
郵便番号 | 07300—07304 |
市外局番 | +380-4596 |
位置図 | |
公式ウェブサイト : http://xn--b1acdo5aan5d.com.ua/ |
ルーシの年代記の中に初めてヴィーシュホロドの名が挙がるのは946年のことである。また、ビザンツ皇帝のコンスタンティノス7世(905年? - 959年)も、ヴィーシュホロドはキーウからドニエプル川を16ベルスタ遡上したところにあるという主旨の記述を残している。キエフルーシ時代のヴィーシュホロドは高い丘の上に位置し、キーウの北方に対する前哨として要塞化されていた。『原初年代記』の中には、946年に聖オリガの領地であったこと[3]、980年ごろにはウラジーミル1世の300人の側室がいたこと[4]、1078年からヤロポルク・イジャスラヴィチ(イジャスラフ1世の子)の領地となったこと[5] などの記述がある。
1155年、ユーリー・ドルゴルーキーは、ヴィーシュホロドに息子のアンドレイ・ユリエヴィチを置いたが、アンドレイは慣れ親しんだウラジーミル・クリャージマへと去った。その際にヴィーシュホロドの[注釈 1]聖母のイコンを運び出した。これが今日の有名なイコン、ウラジーミルの聖母である。また、ヴィーシュホロドでは少なからぬ数の攻防戦が行われた。例えば1093年、1136年、1146年の三度、ポロヴェツ族が街を包囲している。
1240年、モンゴルのルーシ侵攻によって勃発したキエフの戦いの際に、ヴィーシュホロドはキーウとともに戦禍を被った。ヴィーシュホロドは破壊され、以降、年代記から記述が消えることとなった。石造りの建築物の残骸や、高い土塁、クルガンなどが、往時のヴィーシュホロドを偲ばせるのみであったという。1523年の修道院の記録の中に、再びヴィーシュホロドの名が現れるが、そこでは貧しく人口の希薄な村落として記述されている。
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