ラ・ロッシュ=デリアン
ウィキペディアから
ウィキペディアから
ラ・ロッシュ=デリアン (La Roche-Derrien、ブルトン語:Ar Roc'h-Derrienまたはar Roc'hまたはKêr ar Roc'h)は、フランス、ブルターニュ地域圏、コート=ダルモール県の旧コミューン。
La Roche-Derrien | |
---|---|
| |
行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ブルターニュ地域圏 |
県 (département) | コート=ダルモール県 |
郡 (arrondissement) | ランニオン郡 |
小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
INSEEコード | 22264 |
郵便番号 | 22450 |
市長(任期) |
ジャン=ルイ・エヴァン (2008年-2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du Haut-Trégor |
人口動態 | |
人口 |
988人 (2011年) |
人口密度 | 537人/km2 |
住民の呼称 | Rochois, Rochoise |
地理 | |
座標 | 北緯48度44分50秒 西経3度15分30秒 |
標高 |
平均:m 最低:2m 最高:60 m |
面積 | 1 84km2 |
公式サイト | http://www.larochederrien.com/ |
1347年6月18日、ブルターニュ継承戦争の戦いであるラ・ロッシュ=デリアンの戦いが起きた。イングランドの支援を受けたジャン・ド・モンフォール(ブルターニュ公ジャン3世の異母弟)と、ブルトン人とフランスの連合軍を率いたシャルル・ド・ブロワ(ブルターニュ公位継承権者ジャンヌ・ド・パンティエーヴルの夫)との戦いであった。シャルル・ド・ブロワは包囲された住民、そして敵勢力との交渉をいずれも拒否し、町の救援に現れたイングランド軍の隊長トーマス・ダグワースに身柄を拘束された。ブロワを支援するフランスが敗北した。ブロワは、タンギー・デュ・シャステルの介入のおかげで即決処刑を免れた。しかしシャステルがブレストの壁の下で自身の息子たちを殺害されていたことは顕著な事実である[1]。
2019年1月1日、周辺の3コミューンと合併し、コミューン・ヌーヴェル(fr。地方自治体改革の2010年12月16日施行の2010-1563法第21条による、合併によって新設されたコミューン)のラ・ロッシュ=ジョーディとなった。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2011年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
967 | 946 | 971 | 963 | 883 | 1012 | 1086 | 988 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.