モンブラン
西ヨーロッパの最高峰 ウィキペディアから
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モンブラン(仏: Mont Blanc 伊: Monte Bianco)は、フランスとイタリアの国境に位置する、ヨーロッパアルプスの最高峰。標高4807.81 m[1]。ヨーロッパでは、アジアに近いコーカサス山脈のロシア領に属する複数の山(エルブルス山など)に次ぎ高い山であり、西ヨーロッパでは最高峰である。
フランス語でモン (Mont) は「山」、ブラン (Blanc) は「白」を意味し、「白い山」の意味である。イタリアでは、イタリア語で同じく「白い山」の意味のモンテ・ビアンコ (Monte Bianco) と呼ばれる[2]。また、「白い婦人」を意味するLa Dame Blancheというフランス語の異名もある。
モンブランはイタリアのヴァッレ・ダオスタ州とフランスのオート=サヴォワ県の中間に位置している。山頂がイタリアとフランスどちらの国に属するのかが、しばしば議論の対象となっている。
モンブランに最も近い町は、フランス側ではオート=サヴォワ県のシャモニー、イタリア側ではヴァッレ・ダオスタ州のクールマイユールである。1957年から1965年にかけて、この2つの町を結ぶ全長11.6 kmのモンブラントンネルの掘削が行なわれ、以降40年経った現在でもアルプス越えの主要ルートの1つとなっている。
フランス革命以来、モンブランの山頂がどの国に属するのか度々議論になっている。両国とも自国の地図においては、山頂を自国の国境線の内側に取り入れる傾向にある。1861年にトリノで開かれたフランスと当時のサルデーニャ王国との会議では、国境線はモンブラン山頂を通るように定められ、現在のところこれが最終的な公式の合意となっている。
革命以前の何世紀にも渡ってモンブラン全体はサヴォイア公国(後のサルデーニャ王国)の領土であった。しかし、1792年ナポレオン・ボナパルトはサルデーニャ王国に圧力をかけ、サヴォワ県とニースの周辺をフランス共和国に移譲させた。1796年5月15日、国境線を決定するための最初の協定が結ばれた。この協定の第4条には以下のようにある。
passe par les points les plus avancés du côté du Piémont, des plateaux, sommets et autres lieux ci-après désignés, ainsi que des sommets ou plateaux intermédiaires, savoir : en commençant au point où se réunissent les frontières du ci-devant Faucigny, duché d'Aoste et du Valais, à l'extrémité des Glaciers ou Monts-Maudits : 1° les sommets ou plateaux des Alpes, au levant du Col-Mayor ; 2° le Petit-Saint-Bernard (...)
(英訳) The border between the Sardinian kingdom and the departements of the French Republic will be established on a line determined by the most advanced points on the Piedmont side, of the summits, peaks of mountains and other locations subsequently mentioned, as well as the intermediary peaks, knowing: starting from the point where the borders of Faucigny, the Duchy of Aoust and the Valais, to the extremity of the glaciers or the Monts-Maudits: first the peaks or plateaus of the Alps, to the rising edge of the Col-Mayor.
この協定は更なる混乱を生んだ。この協定では国境線はシャモニーとクールマイヨールの双方から視認できる位置に置くことになっていた。しかし、山の一部が山頂を隠すため、クールマイヨールからはモンブラン山頂を望むことができなかった。この協定は内容が不正確であったため、後に新たな条約に置き換えられた。
ナポレオン失脚後の1815年、ウィーン会議によりモンブランを含むサヴォワ県はサルデーニャ王国に戻った。
1860年3月24日、イタリア王国の成立にあたりナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世により、再びサヴォワ県の併合に関する協定が締結された。1861年3月7日には国境に関する合意が行なわれ、新しい国境線が定義された。
1823年の地図「Sarde Atlas」では国境線は山頂の稜線にそって決められていたことがわかる。
3月7日の協定では、以前の稜線にそった国境を中心にして、更に中央山塊の境界線を考慮した国境線をモンブランの氷冠上に定めた。これにより、モンブラン山頂はイタリアとフランスの双方の領土となった。
最新の地形学による分水界の分析に基づき、国境線を主峰の山頂上に設定するだけではなく、南東の尾根からクールマイヨールを全てイタリアの領土として、国境線は主峰の山頂からモンモーディまで北へ向かって設定されるべきであるという提言もある。
フランスとイタリア間の国境は1947年と1963年に再定義されたものの、フランス、イタリア両国の配慮によってモンブランに関する問題は扱われなかった。
従来は標高4807 mとされてきたが、モンブランの山頂は厚い氷に覆われており、標高が気候により変動する。そのため現在では、標高の計測が定期的に行われるようになった。なお、実際の岩の頂上は4792 mであり、氷で覆われた頂上からは40 m離れている。
現在、モンブランは年平均2万人の登山者によって登頂されている。熟練した登山者にとっては難易度はそれほど高くない。モンブラン近くのエギーユ・デュ・ミディの、標高3777 m地点までロープウェーで登ることができ、そこからモンブラン山頂までの標高差は1000 m程に過ぎない。
しかし、今日でもモンブランは多くの死傷者を出している山であり、最盛期の週末には、地元のレスキュー隊が一日平均12回も出動している。これらの多くは一般の登山道への出動である。モンブラン登頂には、高高度における登山の知識、ガイド(もしくは熟練の登山者)、そして十分な装備が不可欠である。登山路には滑落の危険性がある部分などもある。また、高山病の危険性もある。
1950年にエア・インディア245便が、1966年には同じくエア・インディア101便が山腹に墜落して多数の死者が出ている。墜落地点は2機とも山頂付近で、十分な捜索ができなかったこともあり、2012年には外交行嚢が[5]、2013年には宝石類が[6]、2017年にはボーイング707型機のエンジン1基と遺体の一部が発見されている[7]。
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