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中立モレネ(ちゅうりつモレネ)は、ドイツとベルギーの国境に1816年から1920年にかけて存続した共同主権地域である。面積3.5平方キロメートルの小さな領域で、アーヘンの南西7キロメートルに位置した。
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モレネが存続したのは、ドイツ帝国(当初はプロイセン王国)とベルギー(当初はオランダ)が、互いに他方の主張する領有権を認めなかったことによる。この地帯は両国が等しく統治権をもち、中立地帯とされた。
ナポレオン戦争の終結後、1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議は、ヨーロッパの秩序回復・諸国間の勢力均衡を掲げて領土の再配分を行った。
ウィーン会議で新たに設立されたネーデルラント連合王国(オランダ)とプロイセン王国との国境線も、このとき画定されることになった。両者はほぼ従来の境界線を踏襲することで合意したが、アーヘンの南西に位置するモレネ一帯をめぐって争いが生じた。この地域には、亜鉛・真鍮の加工のために必要な菱亜鉛鉱の鉱山があったためである(当時のヨーロッパで亜鉛を生産できたのは、モレネのほかにはイギリスのブリストルだけであった)。フランス語でヴィエイユ・モンターニュ(Vieille Montagne)、ドイツ語でアルテンベルク(Altenberg)と呼ばれたこの鉱山(意味はともに「古い山」)は、もともとのモレネ村 (fr:Moresnet) の東に位置した。
1815年12月以降、プロイセンとオランダの代表はアーヘン近郊で会合を行い、1816年6月26日にモレネを3分割することで合意に達した。
境界石の正式な設置は、1818年9月23日に行われた。中立モレネの領域は、アーヘンとリエージュとを結ぶ幹線道路を底辺とし、北のファールゼルベルクを頂点とする鋭い三角のような形となった。亜鉛鉱山と鉱山集落は、幹線道路のすぐ北側にあった。
1830年、ベルギー独立革命によって、ベルギーがオランダから独立した。中立モレネ西側のオランダ領部分はベルギーの領土となり、中立モレネにおけるオランダの役割もベルギーが引き継いだ。しかし、オランダは公的にはモレネの統治権を譲らなかった。
1859年には市評議会が設置され、大幅な自治権が認められた。
1885年、亜鉛鉱山が廃鉱になると、「中立モレネ」を引き続き存続させるかについて議論が沸き起こった。いくつかの案は、この領域をより独立した国家主体となることを提起していた。
1886年に、鉱山病院の主任医師であり、切手収集家でもあったウィルヘルム・モリー博士(1838年 - 1919年)は、自前の郵便機関を作り、切手を発行することを提案している。しかし、この企画はベルギーの干渉によって断念を余儀なくされた。
1903年8月には中立モレネにカジノが開設された。これは、ベルギーがカジノを禁止したのを当て込んだものであったが、中立モレネの地元住民が賭博に加わったり、20人以上が同時に集まったりすることが禁止されるなど、厳しい制限が加えられた。しかしこの企画も、プロイセン王が賭博を行うならばベルギーと領土分割をすると持ち出したことで挫折させられた。またこのころ、中立モレネではジンの製造のため3つの蒸留所が作られている。
1908年、モリー博士は、中立モレネをエスペラントを公用語とした国家とし、国名をアミケーヨ(Amikejo:友情の地)にしようと提案した。実現すれば世界初のエスペラント国家である。エスペラントによる国歌も提唱された。住人の中にはエスペラントを習得する人もあり、1908年8月13日、ケルミスで開かれた集会では「アミケーヨ」建国のアイデアが支持された。この年、ドレスデンで開かれていた世界エスペラント大会では、中立モレネを世界のエスペラント・コミュニティの首都とまで宣言した。
しかし、この小さな土地に残された時間は少なかった。プロイセン(ドイツ帝国の一部)もベルギーもこの土地に対する領有権の主張を取り下げなかった。とくに1900年前後のドイツは領土問題に関して積極的な姿勢を示していた。プロイセンは領土問題解決のためにサボタージュや行政プロセスの妨害といった手段をとり、しばしば非難の的となった。
第一次世界大戦によって、この地の「中立」は終焉を迎えた。
1914年8月4日、ドイツはベルギーに侵攻した。中立モレネは1915年にプロイセン王国に併合されたが、国際的な承認はなかった。
1918年11月、フランスとドイツの間で休戦が成立。ドイツ軍はベルギーとモレネからの撤退を迫られた。1919年6月28日、ヴェルサイユ条約によってベルギーはプロイシッシュ・モーレスネット、オイペン、マルメディといったドイツ領の町を獲得した。このとき、中立モレネもまたベルギーに帰属することが決定され、100年にわたる「一時的な中立地帯」の問題は解消された。1920年1月10日、「中立モレネ」は正式にベルギー領に編入された。もともとのモレネの町と区別するために、「中立モレネ」はケルミスと名称を改めた。これは、菱亜鉛鉱を意味する方言 kelme に由来する。また、「プロイセンのモレネ」を意味するプロイシッシュ・モーレスネットは、「新モレネ」ノイ・モーレスネット(Neu-Moresnet)に改められた。
1920年以後、モレネはオイペンやマルメディと同じような歴史を歩んでいる。第二次世界大戦時のドイツによる再占領と、1944年のベルギーへの復帰、1973年のドイツ語共同体編成である。1977年に行われた自治体統廃合により、ケルミスは隣接する自治体であるノイ・モーレスネットとヘルゲンラートを編入した。
ノイ・モーレスネットにある小さな博物館 Göhltal Museum は「中立モレネ」の歴史に関する展示を行っている。「中立モレネ」の国境には60本の境界標識が立てられたが、現在も50本以上が残っている。
ヴィエイユ・モンターニュ社の鉱山は閉鎖されたが、会社としては中立モレネで生き残り、いくつかの枝分かれをしながら21世紀の現在も系譜をつないでいる。世界的な金属会社であるユミコアもその一つである。
中立モレネは、2つの王国の理事官によって統治された。これらの理事官は近隣の地方官庁から派遣されたもので、プロイセン側はオイペン、ベルギー側はヴェルヴィエの官吏であった。地域の行政の長は、2人の理事官によって任命される市長が担った。
中立モレネで施行されていた民法・刑法は、ナポレオン時代に持ち込まれたナポレオン法典(フランス民法典・刑法典)であった。しかし、地区内に裁判所がなかったため、裁判の際にはベルギーとプロイセンの裁判官が地区に入り、ナポレオン法典に従って審理しなければならなかった。また、行政裁判所もなかったため、市長の決定を上訴することもできなかった。
1859年には、10人のメンバーから構成される市評議会が設置され、大幅な自治権が認められた。評議員は福祉委員会・教育委員会と同様に市長による任命制であり、諮問機関としての機能のみを有した。住民には投票権はなかった。
中立モレネ出身者は、無国籍状態であると考えられていた。また、中立モレネが独自の軍事力を持つことは認められていなかった。中立モレネに移住した人々も兵役の義務は免除されていた。しかし、ベルギーは1854年に、プロイセンは1874年に、中立モレネに移住した自国民の徴兵を開始するようになった。これ以降、兵役の義務から免れたのは、もともとの住民の子孫に限られることになった。
1883年以降、中立モレネは黒・白・青の横三色旗を領域の旗として使用するようになった。ただし、由来は不明であり、以下の2つの説が唱えられている。
中立モレネは、その100年に及ぶ歴史の中で自らの通貨を発行したことはなかった。実質的な通貨となっていたのはフランス・フランである。このほか、プロイセン、ベルギー、オランダの貨幣が流通していた。
「国家予算」の規模は、その歴史を通じてほぼ2,735フランで固定されており、住民の税負担は軽かった。中立モレネの国境を通過する際の輸入関税は掛からなかったため、国境の向こう側と比べれば物価は比較的安かった。
中立モレネの生活は、ヴィエイユ・モンターニュ鉱業会社 (Vieille Montagne) によって握られていた。亜鉛鉱山を経営する同社は単に主要な就業先であるばかりでなく、住宅や銀行、病院の経営にもあたっていた。
鉱山は近隣諸国から多くの労働者をひきつけた。1815年に256人であった中立モレネの人口は、1858年には2,275人に、1914年には4,668人に増加した。
郵便をはじめとするほとんどの公共サービスは、ベルギーとプロイセンによって共同して行われた。これは、今日のアンドラを想像すれば近いだろう。
中立モレネには5つの学校があった。プロイセン国民は、プロイセン側モレネの学校に通うこともできた。
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