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エジプトのサッカー選手 ウィキペディアから
マハムード・エル=ゴハリ(Mahmoud El-Gohary, 1938年2月20日 - 2012年9月3日)は、エジプト出身の元サッカー選手、サッカー指導者。エジプト及びアフリカのサッカー史において最も重要な人物の1人と評されている[1]。
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名前 | ||||||
本名 |
マハムード・ナスィール・ユーセフ・エル=ゴーハリー محمود نصير يوسف الجوهري | |||||
ラテン文字 | Mahmoud El-Gohary | |||||
アラビア語 | محمود الجوهري | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | エジプト | |||||
生年月日 | 1938年2月20日 | |||||
没年月日 | 2012年9月3日(74歳没) | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
19??-?? | アル・アハリ | |||||
監督歴 | ||||||
1980-81 1982-84 1984-85 1985-86 1986-88 1988-90 1991-93 1993-94 1995-96 1996-97 1997-02 2002-04 |
アル・イテハド アル・アハリ アル・シャールジャ アル・アハリ アル・アハリ・ジッダ エジプト代表 アル・アハリ アル・ザマレク アル・ワフダ・アブダビ オマーン代表 エジプト代表 ヨルダン代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アフリカネイションズカップ1959で得点王に輝き、母国の2度目の優勝に貢献した。
エジプト代表の監督を2度務めた。第一次政権では、国内2大クラブのアル・アハリとアル・ザマレク及び両クラブの代表選手が反目し合っていたが、これをまとめることに成功[2]。1990 FIFAワールドカップのアフリカ予選を突破しチームを56年振りの本大会に導いた。本大会でも2分1敗の善戦でエジプト史上最高の監督と賛辞されたのも束の間、大会後の親善試合ギリシャ代表戦で大敗し解任された[2]。第二次政権ではアフリカネイションズカップ1998で優勝し、12年振りにタイトルを母国に持ち帰った。翌1999年のコンフェデレーションズカップでサウジアラビア代表に1-5で敗れた失態により再解任された[2]。
2002年にヨルダン代表の監督に就任するとAFCアジアカップ2004の予選を勝ち抜き、本大会に初めて進出させる。中国で行われた本大会では無敗でグループステージを突破し、準々決勝では最終的に優勝する日本代表を相手にPK戦まで持ち込み、あと一歩まで追い詰めた。2004年8月、エル=ゴハリ体制下のヨルダンはFIFAランキングで同国史上最上位となる37位を記録した[3]。
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