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ドイツのマイセン地方で生産される磁器の呼称で名実ともに西洋白磁の頂点に君臨する名窯 ウィキペディアから
マイセン(ドイツ語:Meißen)は、ドイツのマイセン地方で生産される磁器の呼称。名実ともに西洋白磁の頂点に君臨する名窯である。
東洋からもたらされた白磁は、17世紀ごろの西洋社会では憧れの芸術品であった。各国が競ってその製造開発に乗り出し、ザクセン選帝侯兼ポーランド王のアウグスト2世も錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁を作るように命じた[1]。ベトガーは物理学者・数学者・哲学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスらの協力を得て、1709年にザクセン・フォークラント地方のアウエ鉱山のカオリンを原料とした白磁の製造に成功した。アウグスト2世はこれに大満足し、西洋磁器の歴史の幕が開けた。
翌1710年、ドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」が設立され、硬質磁器製造の独占権が与えられた。これが現在の「国立マイセン磁器製作所」の始まりである。数か月後に磁器工場は25km離れたエルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城の内部に移され、厳重に機密が保持された。また、同年1月23日には「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」という布告が出ている。
なお、ベトガーは幽閉を解かれることなく、ただちに染付の複製を命じられた。しかしベトガーはこれを果たすことなく37歳で死亡した。
近年の研究では、チルンハウスは1704年に既に磁器の焼成に成功していたのではないかとも考えられている。
マイセンはエルベ川の舟運により材料・製品の輸送が容易であり、また近辺には露天掘りでカオリンを採掘できるザイリッツ鉱山もあり(現在では坑道を掘って採掘)、この立地条件の良さが現在に至る繁栄を支えてきた。
初期のマイセンのデザインは中国の五彩磁器や日本の伊万里焼の影響を受けているが、1720年にウィーンから招かれた絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(1696年 - 1775年)らによってヨーロッパ的なロココ調の作品が主流になった。1764年には工場私設の芸術学校が創設され、4年間の訓練・実習と専門課程が設けられている。また、1865年に作られた国立マイセン磁器製作所では、この芸術学校の卒業生が大勢働いている。
贋作防止のため、マイセンの陶磁器には交差した2本の剣のトレードマークが1723年から用いられており、これは現在まで使われているトレードマークの中ではもっとも古くからあるものの一つである。なお、刃や鍔の傾きなどは年代によって変化している。
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