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ポール・クルックス(Paul Crooks、1960年 - )は、イギリス出身のレーシングカー・エンジニア。
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1977年から、ファーンボローの王立航空研究所RAE (Royal Aircraft Establishment)で航空エンジニアの見習いを始める。マーチのロビン・ハードも所属した著名な英国国立の航空研究所である[1]。
パイストックのRAEの支局の英国立ガスタービン施設:NGTE[2]で、ロールス・ロイスのジェットエンジンに超音速能力の付与をして、コンコルドに搭載した。
1982年、22歳でRAEに正式採用になり、5年間の勤務で(これは彼の受けた教育に対する会社への返済) 航空宇宙プロジェクトのディテールデザイナーとして働いた。ゴードン・コパックの甥のフランク・コパックとは学職を通して一緒だった[1]。
1986年、トールマン (後のベネトン、ルノー)にディテールデザイナーとして就職し、1993年にチーフコンポジットデザインエンジニアに昇格するまでの6年間、ロリー・バーンの下で働いた。1990年末から一時的にバーンがベネトンを離れてレイナードのF1参戦プロジェクトに参加した際は、クルックスもベネトンを離れ行動を共にしている。
ベネトンは1985年シーズン終了後にトールマンを買収し、チームは1986シーズンからベネトン・フォーミュラと改名されているが、ここでは、"設計ファーム"の呼称として“トールマン・グループ・モータースポーツ”が使用されているものの、実態としてはロリー・バーンのデザイン事務所に所属した。
1988年末、フランスのリジェ創設者のギ・リジェは極度の不振に終わった同年のチームを再興すべく技術チームの一新を図り、最高の人材を求めた。ブラジル人エンジニアのリチャード・ディビラ、アメリカ人のケン・アンダーソン、CAD-CAMエースのアンディ・ウィラードに並んで、クルックスをコンポジットデザイン部門の責任者に選んだ。
1991年、コンポジット専門家のクルックスは、1992年シーズンに向けてリジェ・JS37を製造している[3]。
1993年、クルックスはフランク・ダーニーの下でリジェのチーフデザイナーになったが、チーム代表のシリル・ド・ルーヴルの逮捕によりチームは急激な衰退に陥る。
同年、ニック・ワースからのシムテック・リサーチのチーフデザイナー就任要請を受け入れることにして、シムテックに加わり、有望なシムテックS941とS951の両方を設計したが、チームの資金不足とローランド・ラッツェンバーガーの死により、この車は真のメリットを発揮できなかった。チームは1995年半ばまで存続し、クルックスはダーニーからリジェに復帰要請という申し出を受け入れた。
1997年にトム・ウォーキンショーがリジェから撤退したことで、クルックスは再び移籍市場に出された。
イギリスのTWRに参加するのではなく、ジョーダンからのオファーを受け入れて、シルバーストンにある同チーム設計事務所の責任者になった。
クルックスは後にB・A・Rに移籍し、イタリアのミナルディに短期間所属した後、Acura ARX-01a、ARX-01b、ARX-02aを設計したワース・リサーチで働いている。
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