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ヘンリー・ブリッグス(英: Henry Briggs, 1561年2月 - 1630年1月26日)は、イングランドの数学者であり、ネイピアの対数から常用対数を考案したことで知られている。
イングランドはヨークシャーのハリファックス近郊にある Warley Wood で生まれる。古典中等学校でラテン語とギリシア語を学び、1577年にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学し、1581年卒業[1]。1588年にはセント・ジョンズ・カレッジのフェローに選ばれた。1592年、トマス・リナカーの創設した物理学講義の講師を務め、数学の講師も務めた。このころブリッグスは航法や天文学に興味を持ち、エドワード・ライトと共同研究していた。1596年、ロンドンに新たに創設されたグレシャム・カレッジで幾何学の教授に就任。そこで23年近く務め、グレシャム・カレッジをイギリスの数学の中心地とすべく働き、さらにヨハネス・ケプラーの新しい考え方を支持した。彼は占星術師のクリストファー・ハイドンと友人だった。ブリッグスは Mirifici Logarithmorum Canonis Descriptio(ジョン・ネイピアの論文)の写しを入手し、想像力を刺激された。そしてグレシャム・カレッジでの講義で、ジョン・ネイピアが対数の底として採用したネイピア数の代わりに、10を底とすることを提案した。その直後にネイピアに手紙を書いている。ブリッグスは様々な領域で活動し、天文学、統計調査、航法、採掘などついてもしばしば提案を行っている。1619年には、北米東海岸への入植を行うロンドン会社(London Company)に出資している。2人の息子のうちヘンリーは後にバージニア州に移住したが、トマスはイングランドに残った[2]。月にはブリッグスの名を冠したクレーターがある。
1616年、ブリッグスはエディンバラのネイピアを訪ね、対数について話し合った。翌年も同様の目的でネイピアを訪ねている。これらの話し合いで対数の底を10に変更するというブリッグスの提案が受け入れられ、1617年に1000までの常用対数を計算した結果を Logarithmorum Chilias Prima と題して出版した。1619年、オックスフォード大学に幾何学の教授として招かれたが、1620年7月まではグレシャム・カレッジの教授に留まった。
1622年、『バージニアの大陸とハドソン湾を通る、南の海への北西航路』 (Northwest Passage to the South Seas, through the Continent of Virginia and Hudson's Bay という小冊子を出版。1624年には、3万個の自然数(1から20,000までと90,000から100,000まで)の常用対数を小数点以下14桁まで計算した対数表 Arithmetica Logarithmica を出版。また、正弦と正接の対数値の数表も数百の角度ごとに小数点以下14桁まで計算したものを完成し、さらに正弦関数の数表を15桁、正接関数と逆余弦関数の数表を10桁まで計算した。これらは1631年ゴーダで印刷され、1633年に Trigonometria Britannica の名で出版された。ブリッグスは二項定理を発見していたが、証明したわけではない。
ブリッグスはオックスフォード大学のマートン・カレッジにある礼拝堂に埋葬された。Lives of the Gresham Professors によれば、ブリッグスは誠実な人柄で、富を求めない人だったという。
他に、Commentaries on the Geometry of Peter Ramus と Remarks on the Treatise of Longomontanus respecting the Quadrature of the Circle があるが、出版されていない。
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