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ダッハウ強制収容所(ダッハウきょうせいしゅうようじょ、独語:Konzentrationslager Dachau)は、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツの強制収容所である[1]。ナチスの強制収容所の中ではオラニエンブルク強制収容所と並んで最も古い強制収容所と言われ、後に創設された多くの強制収容所のモデルとなった[2][3]。「ダハウ強制収容所」と書かれる事もある[4]。
1965年に、強制収容所跡地のうち旧捕虜収容所敷地内にダッハウ強制収容所記念館が開設された。2022年現在、旧捕虜収容所敷地跡とガス室と火葬場跡を含む範囲が収容所記念碑として公開されている。また、記念碑の敷地外にもいくつかのモニュメントが設置されている。
なお、2015年より、強制収容所跡地のうち旧農場跡の一部は、難民をはじめとするホームレスの保護施設として使用されている。
全部で30以上の国々から20万人が送り込まれ、その内の3分の1近くがユダヤ人であった[5][出典無効]。32,099人が収容所内で死亡し、他に約1万人が主に疾病、栄養失調、自殺によりダッハウの支所で死亡した[6]。1945年初頭にナチスの撤退後にチフスが流行し、体の弱っていた囚人の多くが死亡した。
ダッハウより大きいアウシュヴィッツ同様、ダッハウは多くの人にとってナチス強制収容所の象徴になっている。ダッハウ強制収容所はイギリス軍やアメリカ軍に解放された2番目の収容所であったため、多くの人々にとって重要な場所となっている。従って、西側諸国がナチスの蛮行に直に接した最初の場所の一つであった[注釈 1]。
当初、解放したアメリカ軍はダッハウでガス室による大量虐殺が行なわれていたと発表した。実際に1942年7月末にナチスはガス室を設置するようダッハウに命令を下しており、ダッハウに偽装シャワー室のガス室がつくられている。しかし、ダッハウでガス室が実際に稼働した事実を証明する資料はない。ダッハウでは絞首刑や銃殺による処刑も他のナチ強制収容所と比べるとかなり少なかった[7]。
ダッハウ強制収容所は、第一次世界大戦の際に火薬工場として使われていたダッハウの町の廃工場を利用して建設された[1][8]。この廃工場とその用地は親衛隊(SS)隊員の兵営にする予定で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権掌握直後に購入した物だった[1]。
1933年3月20日にバイエルン州警察長官ハインリヒ・ヒムラーは記者会見を行い、ダッハウ強制収容所の設置を発表した[1][8][注釈 2]。3月22日にダッハウの運営は開始された[1]。この収容所は当初からSSによって運営され、ヒルマール・ヴェケルレ(de:Hilmar Wäckerle)SS中佐が初代所長に就任した。3月23日に最初の収容者として60人の政治犯が送られてきた[11]。
当初はかなり無法状態で、1933年5月には収容されていたドイツ共産党代議士が4名殺害されたため、ミュンヘン検察局が捜査に乗り出し、ダッハウ所長ヴェケルレSS中佐が殺人罪で告発された[2][11]。これを受けてヒムラーは1933年6月末にヴェケルレSS中佐を解任し、新しい所長としてテオドール・アイケSS上級大佐を任じた[11][12]。
アイケは収容者への罰則を体系化するために1933年10月1日に収容所規則を制定した。後にあらゆる強制収容所の罰則として導入された25回鞭打ちの刑、段階別の禁錮刑、減食刑、死刑などの罰則が定められた[12][13]。政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行の際に死刑が執行されると定めた[13]。
また囚人管理を体系化するため、ダッハウの収容者はブロックごとに250人ずつに分けられた。各ブロックごとにSS軍曹のブロック指導者を設置し、ブロック指導者の上にSS曹長の連絡指導者を置き、管理にあたらせた[13]。またならず者ばかりだった収容所警備隊の整理を行い、「親衛隊髑髏部隊」 (SS-TV) を編成させた[14]。ダッハウでアイケによって築かれたこうした体系は、1934年7月にアイケが全強制収容所総監に任命されたことで全強制収容所に拡大されていく。
アイケはユダヤ人を憎悪しており、初期の頃からユダヤ人に対する扱いは苛烈を極めた。国外の新聞にナチス強制収容所についての批判記事が載っているのを見つけるとアイケは「強制収容所の情報が漏れるのはドイツ系ユダヤ人が国外で吹聴しているのが原因」と喚き、収容されているユダヤ人(この段階ではユダヤ人という理由だけで収容されるケースはなく、政治犯の中にたまたまいたユダヤ人である)を真っ暗な抑留棟に閉じ込めたりしていた[13]。
1938年11月、水晶の夜事件の影響で一時大量のユダヤ人がダッハウ強制収容所に収容されたが、彼らは国外へ移住することを条件にほとんどが数週間で釈放された[15][16]。ユダヤ人の収容が本格化するのは戦時中になってからのことである[13]。
1936年にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にブーヘンヴァルト強制収容所が創設されたが、いずれもダッハウ強制収容所をモデルとしていた[17]。
第二次世界大戦が開戦した初期に再建設のため一時ダッハウ強制収容所から収容者が追い出された。ダッハウの収容者たちはフロッセンビュルク強制収容所やマウトハウゼン強制収容所などへ移送された[18]。南北に長い長方形の敷地、二重に張り巡らされた鉄条網、その随所に設置された監視塔という他の強制収容所と同じ形状に作り直された。理論収容数も大きく増やされて9,000人が収容可能となった(もっとも1944年秋にはそれよりはるかに多い3万5000人が押し込まれる事になるが)。1940年春にダッハウ強制収容所が再び稼働した[19]。
国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが1941年1月2日に定めた政令によると、ダッハウは庭仕事など軽い仕事に従事することのできる者を収容する「第一カテゴリー」の収容所に属していた[20]。1943年のバチカンとの合意の後には聖職者はこのカテゴリーの収容所に限定して送られるようになった[20]。
戦争終結が近付くにつれ、ダッハウの状況はだんだんと悪化していった[21]。連合軍がドイツに迫ると、ドイツは囚人の解放を阻止するため、前線近くの強制収容所の囚人を内地の収容所に移しはじめ、ダッハウにも続々と到着した。食事や水が殆どあるいは全くない状況で移送が終わると、囚人は消耗して衰弱し半死半生となる者も珍しくなかった。過重収容、貧弱な衛生状態、乏しい食料そして囚人の衰弱を原因とするチフスの蔓延が深刻な問題となった[21]。
前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人で溢れかえり、衛生状態は人間の尊厳が守られる状況ではなくなっていた。1944年末から解放の日までに15,000人が死亡したが、その犠牲者の約半数がダッハウ強制収容所の囚人であった。ロシア人捕虜500人は銃撃隊により処刑された。
1945年4月27日に、赤十字国際委員会代表のヴィクター・モーラーは収容所内に立ち入ることが許され、食料を配布した。同じ日の夕方、囚人がブーヘンヴァルト強制収容所から到着した。出発時は4,480人から4,800人いたものの移送中に多くが死亡し、到着まで生き延びることができたのは800人だけであった。2,300体を越える遺体は列車内やその周囲にそのまま放置された。収容所の最後の所長エドゥアルト・ヴァイター親衛隊中佐(彼は1942年9月から1943年11月まで収容所所長だったマルティン・ヴァイス親衛隊中佐の後任と考えられている)は既に4月26日に逃亡していた[注釈 3]。
降伏の前日1945年4月28日には収容所長官マルティン・ヴァイスを始めとして収容所の守備隊や職員の多くがダッハウ強制収容所を離れていた。同日、赤十字の代表ヴィクター・モーラーは、収容者の集団脱走とチフスの流行が周辺地域に広まることを懸念し、収容所に残ったヴァイスの副官ヨハネス・オットー中尉に対して、収容所を放棄せずアメリカ軍が到着するまで囚人を外に出さないために守備隊を配置しておくように説得したが、オットーはそれに応じずダッハウから逃亡した。
1945年4月29日、ダッハウ強制収容所の監視塔は連合軍に占領され、白旗が翻った[22]。赤十字代表モーラーは強制収容所を正式に降伏させるため、仮任命されたばかりの所長ハインリヒ・ヴィッカー親衛隊少尉を収容所の正門に呼び出そうとしていた。1945年4月29日午後遅く、ダッハウ強制収容所はヴィッカーによりアメリカ軍に降伏した[23]。降伏の際の情景が、ヘニング・リンデン准将の公式報告「ダッハウ強制収容所の降伏に関する報告」に鮮やかに描かれている。
収容所が連合軍に降伏すると、収容所守備部隊は米兵が行った即決裁判による銃殺刑(いわゆる「ダッハウの虐殺」)の恐怖におののいた。殺された正確な人数は不明であるが、ある資料によるとこの方法で処刑されたのは35人に過ぎず、残りの515人は恐らく逮捕されたり逃亡したと考えられている。米兵に殺害された者の中には、ダッハウ収容所最後の所長となったヴィッカーもおり、兵士らに私刑を受けた後に銃殺された。その遺体は収容者の遺体と共にしばらく放置された。
アメリカ軍は32,000人の囚人を見付けた。定員250人の収容棟20棟には囚人が1,600人ずつ詰め込まれていた。アメリカ軍は39輌の列車に各々100体以上の遺体が詰め込まれているのも発見している。
収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。この部隊は命令もなく他の部隊から准将として入隊することを拒否されたフェリックス・ローレンス・スパークス中佐が指揮していた。スパークスは告発され、逮捕されたが、告発はジョージ・パットン将軍が退けた(スパークスは本当に第45歩兵師団第157歩兵連隊に加わっていた。第42師団や第45師団という部隊は、実際にダッハウに一番乗りしたことについて不和の間柄であった)。パットンは吐き気をもよおすような収容所の状況に衝撃を受けたといわれる。
なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは1992年(ジョージ・H・W・ブッシュ政権下)まで公開されなかった。
アメリカ軍は婦女子を含む地域市民に収容所に来ることを命令し、収容所の中を見せ、施設の掃除を手伝わせた。地域住民はこのような扱いに憤り、収容所で何が起きていたか知らなかったと言ったがアメリカ軍は取り合わなかった。
解放の数日後は、正教会の復活大祭であった。カトリック司祭たちは通常の主日のミサを祝ったが、ギリシャ人やセルビア人、ロシア人などの正教の司祭数名はSSのタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝った。ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式が行われた。ラールという名前の囚人は、この時の様子をこう述べている[24]。
同地に建立された正教の聖堂には収容所の門を出る囚人を導くハリストス(キリスト)を画いたイコンが掲げられており、有名である[24][25]。
なお、ダッハウ解放の際のアメリカ合衆国第7軍については、『アメリカ合衆国第7軍作戦報告』第3巻382ページを参照のこと。
解放後、強制収容所はアメリカ軍の埋葬場に使用され、強制収容所のシンボルとしてヴァイスら同収容所関係者を裁いたダッハウ裁判(英: Dachau trials)の開催地ともなった。1948年、バイエルン州政府がこの場所に難民用の住居を建設し始め、長年使用された[26]。
時が過ぎ、かつて囚われていた人々は、こうした状況で収容所に生きる人々(難民)が依然としていることが信じられない思いで収容所の跡地に記念しようと結束した。
ディスプレイは2003年に再構築されたもので、収容所の見学順路に置かれており、著名な囚人が何名か紹介されている。記念碑建設の際には元の建屋の状況が酷かったために、建屋が二つ再建され、収容所の歴史が遍く見られるようになっている。残りの28棟は、コンクリートの土台で場所を示している。
跡地には囚人が信仰した様々な宗教のために礼拝堂が4つある。地元政府は跡地の完全利用に抵抗した。かつて収容所に隣接していたSSの建屋は現在、機動隊 (Bereitschaftspolizei) が使用している[27]。
収容所は収容区域と火葬場の2区間に分かれていた。収容区域は32棟あり、ナチスの統治に反対して収監された聖職者用の棟が一棟と医学実験用に確保された一棟があった。収容施設と中央の調理場を結ぶ中庭は、囚人の略式処刑に利用された。高電圧の鉄格子、排水溝、七箇所の監視所のついた壁が、収容所の周囲を囲んでいた[28]。
1937年前半に、囚人を働かせていたSSは元々収容所があった場所に大きな複合建造物の建設を開始した。古い焼却場の解体を手始めに劣悪な環境で囚人はこの作業に駆り出された。この建設作業は公式には1938年8月半ばに完了し、収容所は実態は変わりはなく1945年まで運用された。従ってダッハウは第三帝国最長の強制収容所であった。ダッハウのこの区域は、強制収容所の傍に経済・民事幹部学校やSSの医学校などのSSの施設があった。この時期の強制収容所は、「保護拘禁所」と呼ばれ、全体の半分も占めていなかった。
ダッハウはキリスト教聖職者のための収容所という側面も持っていた。カトリック教会に残る記録によれば少なくとも3,000人におよぶ修道者、助祭、司祭、司教が収容されていたとされる[注釈 4]。
1944年8月に、女性用の収容所がダッハウ強制収容所内に開設された。最初の一団は、アウシュヴィッツ・ビルケナウから来た。19人の女性監視員だけがダッハウで監視を行い、ほとんどは解放まで勤めていた[29][注釈 5]。
反抗したり失態をした囚人には親衛隊員の「制裁」が加えられた。「制裁」には食事抜き、長時間の直立不動、殴打、鞭打ち、手を後ろ手に縛りあげて木の柱に吊るしあげ、懲戒部隊への編入、強制労働分隊への編入などが行われた。ダッハウで頻繁に行われた「制裁」が鞭打ちだった。打たれる回数は25回から30回ほどであることが多いが、打たれた数は囚人が大きな声で数えねばならず、数えるのを怠るとその鞭打ちは回数に含まれなかった[30]。
ダッハウでは悪名高い「超高度実験」と「冷却実験」が行われた。ドイツ空軍のための実験であり、空軍軍医ジクムント・ラッシャー博士によって行われた。「超高度実験」は、高度の低気圧に人間がどこまで耐えられるかを調べるために行われた実験である。実験に使われた囚人はほとんどが死亡し、生き残った者には一生涯続く後遺症が残った。「冷却実験」は冷たい海面に落ちたパイロットを救出できるかどうかを調べるための実験であり、冷たい水面につけるなどして囚人を凍死させた後、蘇生が可能かどうか様々な実験が行われた[31]。
終戦直後の1946年のニュルンベルク裁判の公判では、連合軍によって構成された検察側はダッハウ収容所ではガス室による大量虐殺があったと主張していた[32]。 しかし、時間が過ぎるにつれて、ガス室が本当に稼働していたのか疑問視されるようになり、1980年代のダッハウ博物館の公式の説明文章では、「ガス室は完成しておらず、ガス室として使用された事はない」と書かれていた[33][34]が、ダッハウ強制収容所記念館の公式サイトには、「ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人も何人か居たという。(According to one contemporary witness account, some prisoners were killed by poison gas in 1944.)」[35]と記載されており 、ガス処刑があった可能性を否定しているわけではない。 但し、同サイトでは同時に「ダッハウ収容所では、毒ガスによる大量殺戮は一度も行われなかった。親衛隊が何故ガス室を使用しなかったのか、判っていない。(Killing people on a mass scale through poison gas never took place in the Dachau concentration camp. It remains unexplained as to why the SS never used the operational gas chamber for this purpose.)」[35]と述べて、ガス室による大量虐殺が行われた事は明確に否定している。
歴史修正主義者は、ダッハウ収容所のガス室は、収容所を占領したアメリカ軍による捏造ではないか?という疑いを持っている[36][37]。しかし、ダッハウのガス室については、収容所の医師であったジークムント・ラッシャー博士から親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーに送られた手紙(1942年8月9日付)が残されており、そこには以下のように記述されていた。
ご存知のように、KLダッハウにもリンツと同じ施設が建設されています。「障害者輸送」はいずれにせよある部屋に送られるのですから、この部屋で、いずれにせよその部屋に送られることになる人たちに対して、さまざまな戦争ガスの影響をテストすることはできないのでしょうか。今までは動物実験や製造時の事故の報告しかなかったのですが、これからは、このようなガスの製造が可能になります。この段落のため、「秘密事項」として手紙を送ります[38]
リンツには、ハルトハイム療養所(ハルトハイム城)があり、そこでは障害者を対象とした安楽死作戦(T4作戦)を実行するためのガス室があったことが知られている。 だが、ラッシャー博士の手紙が本物だとしても、有毒ガスを使用した実験やダッハウでのガス室の稼働に関する文書は存在しない。したがって、仮にこの手紙が本物であったとしても、実際にはガス実験の許可が下りておらずガス室は稼働していなかった事を証明しているとする主張もある[39]。
また、ラッシャーが手紙で言及しているような実験用の殺人ガス室が存在した、さらには実際に使用されていた可能性があることを裏付けるような証言も残されている(ドイツの捕虜になっていた英国情報局のスパイ、S・ペイン・ベスト大尉による証言)。
翌朝、洗面所に行くと、赤毛の髭を生やした小柄な男がトイレにいて、自分はラッシャー博士だと名乗り、自分は半分がイギリス人で、母親はチェンバレン家と親戚関係にあると言った。私が自分の名前を告げると、彼は非常に興味を示し、私の事件について知っており、ダッハウの医療官だったときにスティーブンス(別のイギリス人将校 - HWM)にも会ったことがあると言った。彼は変わった男だった。おそらく、私が今まで出会った中で最も変わった人物だった。 彼と初めて会ったとき、彼はヒムラーの個人スタッフの一員であったこと、ガス室の建設を計画・監督し、囚人を医学研究の実験台として使うことを指示したのは自分だったことを私に打ち明けた。明らかに、彼はこのことを何も悪いことだとは思っておらず、単なる便宜の問題だと考えていた。ガス室に関しては、彼は、非常に心優しい人物であったヒムラーが、囚人が不安や苦痛を最小限に抑えて絶滅させられることを最も強く望んでいたと述べた。そして、ガス室がガス室であることがわからないように偽装し、患者が二度と目を覚ますことがないことを気づかずに眠りにつくように致死ガスの流れを調整するために、最も多くの労力が費やされたと述べた。残念ながら、ラッシャーによると、毒ガスの影響に対する人によって異なる抵抗力の違いによる問題を解決することは決してできなかった。常に、他の人よりも長く生き延び、自分がどこにいるのか、何が起こっているのかを理解している人が数人いたのだ。ラッシャーは、主な困難は、殺害される人数があまりにも多いため、ガス室が満員になるのを防ぐことができず、それによって、規則的で同時的な死亡率を確保しようとする試みを大きく妨げていたことだと述べた。[40]
直接の目撃証言については、囚人医師のフランティゼク・ブラーハのものだけがあるようである。彼は、米軍による調書(1945年5月3日〜18日)で以下のように語っている。
Q. ダッハウ収容所の火葬場に隣接するガス室を見たことがありますか?A. はい、何度も見たことがあります。
Q. このガス室を検査しましたか?
A. はい、検査しました。また、囚人労働者に作業を遅らせるよう指示しました。なぜなら、建設の目的を知っていたからです。1943年の半ばには完成する予定だったのです。
Q. ガス室はいつ完成したのですか?
A. 火葬場とともに、1944年の初めまでに完成しました。
Q. ガス室の偽シャワーヘッドの構造を見たことがありますか?
A. いいえ、しかし、私は、この建物の建設に携わった労働者全員が、この部屋をシャワー室ではなくガス室と呼んでいるのを聞きました。
Q. この部屋の外側のドアに刻まれた碑文をご覧になりましたか?
A. はい、見たことがあります。この部屋ができて以来、ドアには「シャワー室」というサインが描かれています。
Q. この部屋でガス処刑された人を見たことがありますか?
A.はい、私は7人がガス処刑されるのを目撃しました。
Q. それは何日のことですか?
A.日付は覚えていませんが、1944年の早春、夜の8時頃でした。
Q. ダッハウでガス処刑されたのは、あなたの知る限りでは、それら囚人たちが最初ですか?
A. 私の知る限りでは、はい。
Q. なぜガス処刑後の囚人たちを見ることが許されたのですか?
A.私は遺体を調べ、生きている兆候がないかチェックしなければならなかったのです。私が呼ばれたのは、私が医者だからです。
Q. そのとき見たことを話していただけますか?
A. 私は、2人の死亡した囚人、2人の意識不明の囚人、そして3人のまだ生きている囚人を目撃しました。この3人の囚人はまだ話すことができました。私はSSのラッシャー博士の監視下で働かなければならなかったので、この3人の囚人に質問をすることはできませんでした。ラッシャー博士は自分がガス室に入るのを恐れていたため、私をガス室に送ったのです。私が行った唯一の検査は、囚人が死亡しているかどうかを確認することでした。私が去った後、生き残った人たちに何が起こったのかは知りません。
Q. その特別な機会にこの部屋で使用されたガスの種類を、あなた自身の知識として知っていますか?
A. いいえ、私は何も聞かされていなかったのでわかりませんが、そのガスは甘い匂いと味があり、塩素に似たところがありました。
Q. あなたはガスマスクを着用していたのですか?
A. いいえ、していませんでした。
Q. 部屋に入る前に換気はしていましたか?
A. はい。
Q. 囚人のうち2人だけが死んでいて、2人が意識不明、3人が生きていた理由について、何か説明がありますか?
A. はい、おそらく、ガス処刑の初期の実験段階であったため、この時点では死をもたらすのに必要なガスの量を決定するために最小限のガスを使用していたためだと思います。
Q. ガス室内の2つの死体について、医学的見地から何か特別なことに気づきましたか?
A. はい。彼らは口から泡を吹き、皮膚は青みがかった紫赤色を呈していました。
Q. 使用されたガスは青酸カリだったと思いますか?
A. いいえ、もしガスが青酸ガスであったなら、7人全員が死んでおり、青酸中毒後に観察される鮮やかな緋色のピンク色の皮膚が現れていたはずだからです。
Q. あなたの考えでは、そのガスは塩素または塩素誘導体だった可能性はあるのですか?
A. はい、塩素と他のガスの混合物だったかもしれません。
Q. あなたが部屋に入ったとき、意識があり、座っていた人たちの状態はどうでしたか?
A. 顔色は悪く、皮膚はしっとりと濡れていましたが、咳や涙は見られませんでした。
Q. ガス室に収容された7名の囚人の国籍や人種をご存知ですか?
A. いいえ、彼らは民間人の下着とズボンを着ており、囚人を示す印のない上着は着ていませんでした。死刑に処される囚人の衣服を取り上げ、死刑執行前に囚人服ではなく一般人の服に着替えるのは、昔から慣習となっていました。
Q. ラッシャー博士や他の誰かから、部屋で囚人に何が起こったかについて何か言われましたか?
A. いいえ。ラッシャー博士は私を車に乗せ、何も言わずに火葬場まで連れて行きました。部屋に着くと、彼は中に入って男性たちの様子を観察し、結果を報告するようにと言いました。
Q. その部屋で衣服や毛布の消毒が行われた形跡はありましたか?
A. いいえ、私が部屋に入ったときにいた囚人を除けば、部屋は完璧に清潔でした。
Q. 医師として、医学者として、あなたが発見した2体の遺体はガスで処刑されたものですか?
A. はい、そう思います。なぜなら、市民生活でガス室に入った患者を観察し、治療した経験があるからです。この部屋には3つのグループの人々がいました。1つ目のグループは半意識状態の人たち、2つ目のグループは意識を失った人たち、3つ目のグループはすでに死亡していた人たちでした。死亡していた人たちは口から泡を吹き、顔は青みがかった紫色に変色し、少し腫れていました。意識を失っている人の脈拍は遅く、弱く、1分間に平均50回程度でした。意識のある人の脈拍も遅く、1分間に平均60回程度でした。
Q. その部屋でのガス処刑が起きたことについて、直接または間接的に知っているエピソードを他に何か知っていますか?
A. いいえ、ガス処刑については、私自身の知識ではなく、伝聞でしか知りません。ただし、病院の特定の部屋から精神異常の患者が追い出され、火葬場へ移送されるのを見たという事件は数多く知っています。私の知る限り、これらの患者は病院に戻ってきませんでした。病院から連れ出された精神異常の患者には、退院届が発行されました。
Q.心神喪失で火葬場に連れて行かれた患者をご存知ですか?
A. はい。
Q. あなたの知る限り、これらの患者が病院に戻ったり、収容所内で診察を受けたりしたことはありますか?
A. いいえ。
Q. あなたは、いつ、これらの狂気じみた人々が火葬場へ運ばれるのを目撃したのですか?
A. 私がガス室に送られた7人の人々を目撃したエピソードの前と後に、私はその両方を目撃しました。しかし、私が目撃したエピソードの前に行われたガス室送りの人々は注射を打たれましたが、エピソードの後に行われた人々は注射を打たれていませんでした。
[41]
ダッハウのガス室の目撃者は、フランティシェク・ブラーハしか居ないが、ブラーハが、虚偽証言を行なっているのではないか。という指摘がなされている。スタニスラフ・ザメチニクは、フランティシェク・ブラーハの証言に矛盾はあるものの、信憑性があると考えていた。 しかし、その後、ダッハウのガス室で人々が殺害されたという証拠は存在しない。と認めている[42]。 また、ブラーハに対して、弁護士側による反対尋問が行われる事は無かった[43]。
ガス室よる虐殺の証言があっても、それが事実とは限らず、例えばベルゲン・ベルゼン強制収容所で、ガス室による虐殺の証言が宣伝されたが、実際にはベルゲン・ベルゼン強制収容所にガス室は無く虚偽証言だった [44]。
アメリカ軍側がダッハウのガス室を捏造した事を認めている証言や、ガス室など無かったと認めている証言があるとされている。
収容所にはガス室が必要だったが、ガス室が存在しなかった為、シャワー室をガス室だったように捏造する事が決定された。シュトラウス大尉 (アメリカ陸軍) と囚人たちは作業に取り掛かかった。 以前は、約4フィートの高さの敷石が敷かれていた。
隣の乾燥室にあった同様の敷石が取り除かれ、シャワー室の敷石の上に敷かれ、この2列目の敷石の最上部に、鉄製の漏斗 (ガスの入口) が入った新しい低い天井が作られた。[45]
私は戦後、米国陸軍省の弁護士としてダッハウに17か月間滞在したが、ダッハウにはガス室は無かった。[44]
ダッハウのガス室とされる部屋は、実際にガス室として機能しない。つまり有毒ガスが、パイプやシャワーヘッドを通して伝達される事は無く、あらゆる物的証拠が、問題の部屋がガス室ではなく、本来はシャワー室で有った事を裏付けていると指摘されている[46]。 また、毒物の投入口とされる部分の問題がある。この投入口の部分は、取り付けのモルタルの状態がこの部分だけ新しく、あとから追加されたものであり、もしこの建物が最初からガス室として建設されたなら、最初から装備されているはずで追加の必要はない。この問題の投入口の工事の作業は雑に行なっており、この部分の工事は明らかに同一の組織によるものではない。したがって、これがアメリカ軍によるガス室の捏造工作の証拠である。と考えられている[47]。
ガス室が実際に使用された事を示す物的証拠は全く存在しない。と主張が行われている[45]。
ダッハウ収容所の関係者を裁いたダッハウ裁判(英: Dachau trials)では、尋問で被疑者に対して激しい拷問が行われていた、と指摘されており、これがガス室による大量虐殺という誤認を生んだと考える[48][49]説がある。
ダッハウ収容所の死亡者数に対して、プロパガンダが行われていると指摘されている。
戦後、米軍はダッハウ収容所で、23万8000人もの死亡者が出たと主張していた[42]。他にも、45万人という膨大な死亡者が主張されたとされている[51]。
しかし、現在、死者総数は下方修正されて、公式サイトでは死亡者4万1500人としている[35]。また修正主義者は約3万人程度と考えている[39]。
ダッハウには特別な「司祭区域」があった。ダッハウに捕らえられた2,720人の司祭の内(そのうち2,579人はカトリック)、1,034人は生き残れなかった。大半がポーランド人(1,780人)で、その内の868人が死亡した。
バイエルンのヴィッテルスバッハ家の一族はナチスの支配を嫌いハンガリーに移住していたが、1944年のナチスのハンガリー占領時に捕えられ、ザクセンハウゼン強制収容所に収容され、その後1945年初旬にダッハウへと移された(王太子ループレヒトは1939年にイタリアに亡命していたため、難を逃れた)。
フランツ・フェルディナント大公の子女はウィーンのアーツテテン公邸に居住していたが、アンシュルス(大ドイツへのオーストリア併合)後に1944年 - 45年にダッハウに収監された。
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