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ソ連によるルーマニアの占領
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ソ連によるルーマニアの占領(ソれんによるルーマニアのせんりょう、ルーマニア語: Ocupaţia Sovietică a României, オクパツィア・ソヴィエティカ・ア・ロムニエイ、ロシア語: Советская Оккупация Румынии, サヴィエツカヤ・アクパーツェア・ロムニエ[1] )は、1944年から1958年にかけて、ソ連がルーマニアを軍事占領した期間を指す。1944年8月、第三ウクライナ戦線正面軍(ロシア語版)がヤッシー=キシニョフ攻勢に従軍し、モルダヴィアを占領したのち、ルーマニアはドイツに宣戦布告した。1944年8月の時点で、ルーマニアはナチス・ドイツの同盟国であった。この年の4月から8月にかけて行われた戦闘を経て、ソ連軍はモルダヴィアの北西部を占領した。1944年8月23日、ルーマニア王国の君主、ミハイ一世が起こした宮廷クーデター(ルーマニア語版)でイオン・アントネスク(Ion Antonescu)は逮捕された。ミハイ一世は「この国を破局から救う唯一の方法は、枢軸国との同盟からの離脱と戦争の即時停止である」「ルーマニアはソ連、イギリス、アメリカ合衆国からの休戦協定を受け入れた」と発表した[2][3]。その後、ルーマニアはドイツとの同盟を解消し、連合国側に付いた[4]。1944年9月12日のモスクワ休戦協定の調印に先立ち、ソ連軍はルーマニアの領土の大部分を占領した。休戦協定ならびに1947年2月に締結されたパリ講和条約により、ルーマニアにおけるソ連軍の駐留に法的根拠が与えられた[5]。1952年の「ルーマニア人民共和国憲法」の序章では、「ルーマニア人民共和国は、都市や農村の労働者で構成される国家である。ルーマニア人民共和国は、ドイツのファシズムに対するソ連の歴史的勝利と、栄光あるソ連軍がルーマニアを解放したことで誕生した」と明記されている[6]。1918年以降はルーマニアの領土であったベッサラビアと北部ブコヴィナは、ソ連が占領した。
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西側諸国とルーマニアの反共主義者の多くは「ソ連によるルーマニアの占領」なる表現を使うことが多い。
- 「ソ連軍は1944年にルーマニアを占領し、10年以上居座った」[7]
- 「ソ連占領軍は、1958年に撤退した」[8]
- 「この国は、(1958年まで)ソ連による長期の占領に耐え続け、ソ連に対して巨額の賠償金を支払わなければならなかった」[9]
- 「ルーマニアを占領したソ連軍は、ルーマニアの政治家たちに対する無制限の干渉ができるようになった」[10]
- 「1958年6月、ルーマニア、ロシア、ユーゴスラヴィアの間における複雑な合意に基づき、ソ連による占領軍の部隊がルーマニアを去った」[11]
- 「ルーマニアの共産主義者は、1944年にソ連軍が国を占領するまで、冴えない末端集団として留まっていた」[12]
- 「ソ連軍はルーマニア領土を占領した…ソ連が管理する政治組織『ルーマニア共産党』は、いかなる人的犠牲を払おうとも、この情勢を利用してスターリズム政権の国家をできるだけ早く樹立しようとしていた」[13]
- 「主要な焦点となるのは、1944年から1958年にかけての、ルーマニア領土の大部分の占領である…ソ連による占領が、ルーマニアの経済、政治、社会に壊滅的な影響をもたらしたことに、疑いの余地は無い」[14]
- 「ソ連軍の撤退は、14年間続いたこの国に対する直接の軍事占領の終わりを意味した」[15]
ルーマニアの歴史家、スティーヴン・フィッショル=ガラースィ(ルーマニア語版)は、1944年から1958年にかけての占領期間について「『資本家民族主義』の遺物の破壊と、ソ連の占領下におけるルーマニアの国家主権の縮小がもたらした、国民の主体性の喪失である」と表現している[17]。