サージョージ・シャーフ(Sir George Scharf KCB1820年12月16日 - 1895年4月19日)は、イングランド美術評論家イラストレーターナショナル・ポートレート・ギャラリー館長。

概要 サー・ジョージ・シャーフ, 生誕 ...
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経歴

生い立ち

シャーフは、ロンドンのセント・マーティンズ・レーン3番地 (3 St Martin's Lane) に生まれた。父は、バイエルン出身の細密画家であったジョージ・ジョハン・シャーフ英語版であり、叔父には俳優イラストレーターでもあったヘンリー・シャーフ英語版がいた。ユニヴァーシティ・カレッジ・スクール英語版で教育を受け、父の下で学び、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツからメダルを受賞して、1838年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ美術学校に入学した[1]

旅行

1840年チャールズ・フェローズ英語版の2回目の小アジアへの旅に同行するよう誘われたシャーフは、その途上でイタリアにしばらく滞在した。3年後、シャーフは製図者英語版として再び小アジアを訪れた。リュキアカリアリュディアの各地で風景や遺物の素描を多数制作し、それらは後に大英博物館に収蔵された。これら素描作品の一部は、フェローズによる文章を添えて、1847年に出版された。

画家として

イングランドに戻ったシャーフは、ミュラクサントスの墓を描いた油彩画を、1845年1846年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに出品した[2]。シャーフは、美術や骨董に関する様々な本にイラストレーションを提供し、特にマコーリーの『古代ローマの歌 (Lays of Ancient Rome)』(1847年)、ミルマン英語版の『ホラティウス (Horace)』(1849年)、クグラー英語版の『Handbook of Italian Painting』(1851年)や、スミス博士古典学辞書類などが有名になった。

シャーフは、広く講演や教育にも取り組み、水晶宮におけるギリシア、ローマ、ポンペイの中庭 (courts) の構成にも関わった。1857年には、マンチェスター美術名宝博覧会 (Art Treasures Exhibition, Manchester 1857) の美術部門の責任者も務め、同年には新設されたナショナル・ポートレート・ギャラリーの書記兼監督に任じられた。その後の彼の人生は、このギャラリーのために捧げられた。

シャーフは、歴史的な肖像画に関するあらゆる事柄の知識において、誰にも引けをとらなず、この方面で多数の学術的論文を執筆していた。1885年、ギャラリーへの貢献を認められたシャーフは、バス勲章コンパニオン (CB) を与えられ、1895年はじめに辞任した際にはナイト・コマンダー (KCB) に昇格し、さらにギャラリーの信託理事 (trustee) に任じられた。シャーフは、長く患った後、1895年4月にロンドンで死去した[3]

油彩画とイラストレーション

ギャラリー

参考文献

ジョージ・シャーフの肖像

ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵作品から

脚注

外部リンク

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