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ジャック2世・ド・ブルボン(ジャック2せい・ド・ブルボン、フランス語:Jacques II de Bourbon, 1370年 - 1438年9月24日)は、ラ・マルシュ伯(在位:1393年 - 1438年)。1396年にニコポリスの戦いで捕虜となり、後に身代金を要求された。1403年、ジャック2世はイングランド本土への攻撃を主導し、プリマスを焼き払った。1415年にナポリ女王ジョヴァンナ2世と結婚したが評判が悪く、幽閉された後、1419年にナポリ王国から追放された。1435年に伯位を放棄し修道士となり、1438年に死去した。
ラ・マルシュ伯ジャン1世とヴァンドーム女伯カトリーヌの長男として1370年に生まれた[1]。ジャック2世はニコポリスの戦いで初陣を飾ったが[2]、捕虜となり身代金を要求された[3]。フランスに戻った後、オワイン・グリンドゥールを支援するため、イングランド侵攻軍の指揮を執った。ジャック2世の軍は1403年にプリマスを焼き払ったが[4]、嵐の中で12艘の艦隊の船を失い、1404年にフランスに戻った。
ジャック2世はブルゴーニュ公ジャン無畏公を支持し、アルマニャック派と対立した。しかし、ジャック2世のフランスでの活動は、海外に滞在している間中断された。1415年、ナポリ王国の貴族らはジャック2世とナポリ女王ジョヴァンナ2世との結婚を準備した[5]。ジャックには、女王のお気に入りパンドルフォ・アロポとムーツィオ・アッテンドロ・スフォルツァの力をそぐことが期待された。ジャックに王位は与えられなかったが、司令官代理、カラブリア公およびターラント公とされた[5]。ジャックはアロポを処刑、スフォルツァを投獄し、さらに女王を監禁して自身による単独統治を求めた[5]。しかしこれに憤慨した貴族らは、1416年にジャックを捕らえ投獄した。そこでジャックはスフォルツァを解放し、王権から退くことを余儀なくされ、1419年にナポリ王国から追放された[5]。
フランスに戻った後、ジャックは1428年にフランス王シャルル7世のためにイングランド軍と戦い、ラングドックの総督に任ぜられた。
1435年、ジャックは退位しフランシスコ会の修道士となり、1438年に死去した。
1406年にパンプローナでナバラ王カルロス3世とレオノール・デ・カスティーリャの娘ベアトリスと結婚した[6]。2人の間には3女が生まれた。
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