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イギリス王ジョージ4世の唯一の子で即位前に死んだ娘 ウィキペディアから
シャーロット・オーガスタ(英語: Charlotte Augusta, 1796年1月7日 - 1817年11月6日)は、イギリス王兼ハノーファー王ジョージ4世と王妃キャロラインの唯一の子。父が摂政王太子、プリンス・オブ・ウェールズだった間に生まれて死去したため、シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ(Charlotte Augusta of Wales)と呼ばれる。
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シャーロット Princess Charlotte | |
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ハノーヴァー家 | |
1817年、ジョージ・ドー画 | |
続柄 | ウェールズ公ジョージ(のちのジョージ4世)第1女子 |
全名 |
シャーロット・オーガスタ Charlotte Augusta |
身位 | Princess(王女) |
敬称 | Her Royal Highness(殿下) |
出生 |
1796年1月7日 グレートブリテン王国 イングランド、ロンドン、カールトン・ハウス |
死去 |
1817年11月6日(21歳没) イギリス イングランド、サリー、クレアモント・ハウス |
埋葬 |
1817年11月19日 イギリス イングランド、ウィンザー城、聖ジョージ礼拝堂 |
配偶者 | レオポルド・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド |
父親 | ジョージ4世 |
母親 | キャロライン・オブ・ブランズウィック |
サイン |
1796年、摂政王太子ジョージと妃キャロラインの唯一の子として誕生する。両親は不仲で、以降弟妹は誕生せず、また放蕩な叔父たちにも、長らく嫡出子がいない状態だった。
そもそも、放蕩なジョージ側による金銭目当ての結婚であり、結婚早々から両親は不仲だった[1]。双方に問題点はあったが、キャロラインは国王ジョージ3世や庶民からの人気が高かった[2]。1796年1月7日にシャーロットが誕生すると、その養育方法を巡り、2人の対立は決定的になり、1797年には別居して二度と共に暮らすことは無かった[3]。シャーロット王女は、セント・ジェームズ宮殿で養育され、キャロラインとの面会の頻度も徐々に減らされていった[3]。
夫妻の不仲が、世間に露呈したのは、キャロラインの”不品行”をまとめ、1806年7月14日付で国王に提出された『The Report』(報告書)であった[4]。しかし、これは逆にキャロラインの無実と、ジョージの放蕩ぶりを露呈させるものだった。トーリー党の首相スペンサー・パーシヴァルにより、キャロラインに有利な資料等も含めた『The Book』として再構成されていた[5]が、予想に反し、ジョージがトーリー党を閣僚に留任させたことから、パーシヴァルは出版を見合わせていた[5]。パーシヴァルが1812年5月に暗殺されると、キャロライン側についたホイッグ党により1813年2月に『The Book』が出版されることとなる[6]。
1813年5月、キャロラインは、シャーロット王女との面会を懇願していたが状況は解消されなかった[7]。ヘンリー・ブルーム議員は、苦境のキャロラインに接近し、未来の女王であるシャーロットをホイッグ党側に引き込もうと試みた[8]。ブルームはキャロラインに同情的な世論を形成すべく、ジャーナリズムに対して工作を行った[8]。
しかし、キャロラインは年金を得て国外で暮らすことを選び、シャーロットの懇願も聞かずに出国してしまった[9]。
ナポレオン戦争の終結から1年余りを経た1816年5月2日、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト家のレオポルド公子とロンドンのカールトン・ハウスで結婚した[10]。レオポルドは当時ロシア帝国陸軍の元帥だったが、結婚後はイギリスで暮らした。しかし、シャーロットは翌1817年11月6日に男子を死産した後、間もなく死去した。
母キャロラインにとっては、娘シャーロットの即位後に王太后として帰国する目論見が潰えてしまった[11]。また、女王シャーロットの下で首相を目指していたブルームにとっても、大きな痛手であった[11]。
なお、レオポルドは1831年に初代ベルギー国王に推戴され、翌1832年にルイーズ=マリー・ドルレアンと再婚した。
祖父ジョージ3世の王子のうち、長男ジョージ4世、次男ヨーク・オールバニ公フレデリック、三男ウィリアム4世、四男ケント公エドワード、五男カンバーランド公アーネスト、六男サセックス公オーガスタス、七男ケンブリッジ公アドルファスの7人が成人していた。
しかし、シャーロットが逝去した1817年時点で、ジョージ4世の弟たちはすでに中高年に差し掛かっていたが、嫡出子がいない状態だった。兄弟中の独身者は急遽、王族や高位貴族の女性を配偶者に選び、後継者を儲けようとした。
妻帯者のヨーク・オールバニ公フレデリックは、嫡出子がないまま1827年に逝去した。ウィリアム4世は1818年に結婚し、1819年と1820年に王女が誕生したが夭折した。ケント公エドワードは1818年に出産歴のある未亡人ヴィクトリア(レオポルドの姉)と結婚し、1819年5月24日にヴィクトリア王女が誕生したが、公自身は1820年1月に逝去した。アーネストには1819年に男子が誕生し、ハノーファー王位を継承した。サセックス公オーガスタスは嫡子を儲けることなく、1831年に再婚した。末弟のケンブリッジ公アドルファスも1818年に結婚し、1男2女を儲け、末子メアリーの娘が後にイギリス王妃となるメアリー・オブ・テックである。
このようにシャーロットの逝去を機に、ヴィクトリア女王を含む嫡出の王族が多く誕生することとなった。
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