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ザ・バーバリアン(The Barbarian)のリングネームで知られるシオネ・ヴァイラヒ(Sione Havea Vailahi、1958年9月6日 - )は、トンガ・ヌクアロファ出身のプロレスラー。
大相撲朝日山部屋出身の元力士であり、プロレス転向後はコンガ・ザ・バーバリアン(Konga the Barbarian)の名義で新日本プロレスに度々来日した[1]。
ノード・ザ・バーバリアンことジョン・ノードとは別人。両者は1991年下期から1992年上期にかけて、WWFを共にサーキットしていた(当時のノードのリングネームは「ザ・バーザーカー」)。
レスラー間では、バーブ(Barb)の愛称で呼ばれた[2]。姪のセイニー・トンガもプロレスラーであり、レイディー・タパ(Lei'D Tapa)のリングネームでOVWやTNAなどで活動[3]。2017年7月30日にはRIZINに参戦してKINGレイナと対戦した。
1974年末、福ノ島ことウリウリ・フィフィタ(後のキング・トンガ、ハク、ミング)らと共にトンガ国王の命で来日し、大相撲の朝日山部屋に入門。幸ノ島(さちのしま)の四股名を与えられ、1975年3月に初土俵を踏むが、部屋の後継問題が原因で1976年9月に廃業を余儀なくされる(トンガ人力士廃業騒動)。その後アメリカに渡り、元AWA世界タッグ王者レッド・バスチェンに師事。1980年、カリフォルニア地区でキラー・カール・クラップを相手にプロレスラーとしてデビューした。
当時はトンガ・ジョン(Tonga John)をリングネームに、ジミー・スヌーカ系のアイランダー・ギミックのベビーフェイスとして活動。1981年からはNWAのミッドアトランティック地区やセントラル・ステーツ地区、プエルトリコのWWCなどを転戦して、コンガ・キッド(Konga Kid)、キング・コンガ(King Konga)などの名義で試合を行った[4]。WWCでは1984年7月7日、ヘラクレス・アヤラからプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取している[5]。
1985年より、当時大人気だったロード・ウォリアーズのビジュアル(モヒカン刈りに顔面ペインティングのマッドマックス・スタイル)を真似たヒールに変身。コンガ・ザ・バーバリアン(Konga the Barbarian)と改名してミッドアトランティック地区に戻り、ポール・ジョーンズ率いるヒール軍団に加入、スーパースター・ビリー・グラハムやアブドーラ・ザ・ブッチャー、バロン・フォン・ラシク、シャスカ・ワトレーらと共闘する[6][7]。1985年10月には新日本プロレスに初来日、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦した[8]。以降も新日本プロレスの常連外国人となり、スティーブ・ウィリアムスとの抗争アングルなども組まれた[1]。
1987年11月、ミッドアトランティック地区にて同じくウォリアーズを模したキャラクターのザ・ウォーロードとコンビを組み、フェイク版ロード・ウォリアーズのパワーズ・オブ・ペイン(The Powers of Pain)を結成[9]。リングネームもザ・バーバリアン(The Barbarian)と簡略化させ、本家ウォリアーズとタッグ抗争を展開する[10]。1988年2月12日にはプレイング・マネージャーのイワン・コロフを加えたトリオで、ダスティ・ローデス、ロード・ウォリアー・ホーク、ポール・エラリング(負傷したロード・ウォリアー・アニマルの代打で出場)を破り、NWA世界6人タッグ王座を獲得した[11]。
1988年6月からはデモリッションのライバル・チームとして、ウォーロードと共にWWFに移籍。当初はベビーフェイス、後にヒールとなり、ミスター・フジをマネージャーに迎えてデモリッションと抗争を繰り広げた[12][13][14][15]。1990年下期、リージョン・オブ・ドゥームことロード・ウォリアーズのWWF参戦に伴いウォーロードとのコンビを解散し、毛皮のコスチュームをまとった野人ギミックのシングルプレイヤーに転向。ボビー・ヒーナンのファミリーに加わり、旧友ハクとの新チームで活動した[16]。1991年には、当時のWWFの日本での提携先だったSWSに3回来日している[17]。
1992年よりマッドマックス・スタイルに戻ってWCWに移籍し、カクタス・ジャックやディック・スレーターと結託。6月25日にはスレーターと組んでマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズからUSタッグ王座を奪取[18]、10月25日開催のPPV "Halloween Havoc" ではロン・シモンズのWCW世界ヘビー級王座に挑戦した[19]。1993年には新日本プロレスに久々に参戦、10月開幕の "Super Grade Tag League III" にもマサ斎藤と組んで出場している[20]。1994年下期よりWWFに再登場、負傷で離脱したサムゥに代わるファトゥの新パートナーとなり、ヘッドシュリンカーズ(The Headshrinkers)に加入した[21]。
1996年にWCWに復帰して、1999年頃までセミレギュラーとして定着。ミング(ハク)とフェイシズ・オブ・フィアー(The Faces of Fear)なるタッグチームを結成し、スティービー・レイ&ブッカー・Tのハーレム・ヒート、ケビン・ナッシュ&スコット・ホールのアウトサイダーズ、ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグスのナスティ・ボーイズなどと対戦したが、中堅のポジションからオーバーすることはできなかった。
WCW離脱後はインディー団体を転戦して、2000年8月2日にオーストラリアのスーパースターズ・オブ・レスリングでカート・ヘニングからヘビー級王座を奪取。2004年8月31日にはIWAジャパンの10周年記念興行に来日、IWA世界ヘビー級王座の争奪トーナメントに出場し、1回戦でジョージ・ハインズを下したが、準決勝の2回戦でジム・ドゥガンに敗退した[22]。
セミリタイア後も各地のインディー団体への参戦を続け、2008年2月にはテッド・デビアスをマネージャー役に、旧敵デモリッション・アックスとのタッグでバージニアのACWに登場。2012年9月14日にはCHIKARAの6人タッグチーム・トーナメント「キング・オブ・トリオ」に、ミング&ウォーロードと組んでのフェイシズ・オブ・ペイン(The Faces of Pain)として出場。1回戦でマイク・ベネット&ヤング・バックスのチームROHと対戦した[23]。2014年7月12日にはジョージアのNWAアトランタに、ウォーロードとのパワーズ・オブ・ペインで出場している[24]。
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