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オーストラリアのサッカー選手 ウィキペディアから
サイモン・コロシモ(Simon Colosimo, 1979年1月8日- )は、オーストラリア・メルボルン出身の同国代表サッカー選手。
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Simon Colosimo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
オーストラリア イタリア | |||||
生年月日 | 1979年1月8日(45歳) | |||||
出身地 | メルボルン | |||||
身長 | 183cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF (CB) | |||||
利き足 | 両足 | |||||
ユース | ||||||
1996-1997 | オーストラリア国立スポーツ研究所 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1997-2000 | カールトン | 50 | (10) | |||
2000-2001 | サウス・メルボルン | 18 | (2) | |||
2001-2002 | マンチェスター・シティ | 6 | (0) | |||
2002 | ロイヤル・アントワープ | 0 | (0) | |||
2002-2003 | パース・グローリー | 14 | (0) | |||
2003-2004 | パラマッタ・パワー | 23 | (1) | |||
2004 | パハン | 20 | (6) | |||
2005-2008 | パース・グローリー | 50 | (2) | |||
2007 | → シヴァススポル | 14 | (1) | |||
2008-2010 | シドニー | 34 | (0) | |||
2010-2013 | メルボルン・ハート | 63 | (1) | |||
2013-2014 | デンポSC | 19 | (0) | |||
2014 | Goulburn Valley Suns FC | 11 | (1) | |||
2015 | Werribee City FC | 18 | (1) | |||
代表歴2 | ||||||
1996-1999 | オーストラリア U-20 | 16 | (5) | |||
1997-2000 | オーストラリア U-23 | 14 | (0) | |||
1998-2010 | オーストラリア | 26 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2016年4月30日現在。 2. 2016年4月30日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
コロシモは、1997年にAIS卒業後、同年に創設されNSLに参戦するカールトンSCに加入した。デビュー年からレギュラーとして活躍していたことからバイエルン・ミュンヘンとパナシナイコスFCから関心を寄せられていたが、1999年7月22日、マンチェスター・ユナイテッドFCの親善試合ツアー戦でアンディ・コールのタックルで膝を負傷した[1]ことで、1999-2000シーズン大半を欠場することを余儀なくされた。このシーズン終了後にカールトンが解散したことにより、2000年3月14日に地元のサウス・メルボルンFCと契約した。 メルボルンで1年プレー後にヨーロッパへ移動し、イングランド2部のマンチェスター・シティFCに加入。さらにその1年後にベルギーのロイヤル・アントワープFCに移動となかなか定着出来ず、2002年にオーストラリアへ戻りNSLのパース・グローリーFC, 2004年にリーグが解体されるまでパラマッタ・パワーで過ごした。
2004年、マシュー・ビングリー, アンテ・ミリチッチら同胞数人と共にマレーシアのパハンFAに加入し、再編されたこのリーグで優勝をした。
新設されたAリーグに参戦する古巣パース・グローリーに誘われ、オーストラリアに戻り3年契約を結んだ。2006-07シーズンにチームのMVPに選ばれた。
Aリーグのオフシーズンを利用した4ヶ月の短期レンタルでトルコのシヴァススポルに参加[2]し、2007-08シーズン開幕に向けて復帰すると、チームのキャプテンに任命された[3]。しかし、シーズン終了後にシドニーFCへ移籍する動きが噂されると、パースのサポーターから歓迎されなくなり敵意を向けられ[4]、終盤戦の数試合はスタメン落ちが続いた[5]ため、2008年1月22日に双方合意で契約を解除し退団した[6]。
1月27日、2008-09シーズン開幕に向けてシドニーFCに2年契約で加入[7]。翌2009-10年シーズンは、シーズンを通してコンスタントに印象的なパフォーマンス披露。その集大成として2度目となるジョー・マーストン・メダルを獲得し、CBとして傑出した選手となった。2010年3月31日、同僚のクリント・ボルトン, ジョン・アロイージと共にメルボルン・ハートに移籍した[8]。この新クラブでキャプテンとなったコロシモは、アデレード・ユナイテッドFC戦のロスタイムにゴールを決めて2-1で勝利した。
1997年、AIS所属時にU-20代表に選出。翌1998年、19歳の時にフィジー戦でオーストラリア代表デビューを果たした。さらに翌年の1999 FIFAワールドユース選手権のメンバーに選ばれた。
1999年7月18日、メルボルン・クリケット・グラウンドで行われるマンチェスター・ユナイテッドFCとの親善試合にラウル・ブランコ代表監督に招集されると、この試合でアンディ・コールに膝をタックルをされストレッチャーで退場。内側側副靱帯の前十字靭帯を負傷・前十字靭帯再建術が必要と診断され、半年間ボールを蹴られない日々が続いた。この件に関しカールトンSCのGMは法的措置の構えを見せた[1][9]。
怪我から回復後は、シドニーオリンピックやFIFAコンフェデレーションズカップ2005等に出場。また、AFCアジアカップ2007 (予選)を戦いぬき本大会進出に貢献したが、リザーブメンバーにとどまりAFCアジアカップ2007のメンバー入りは果たせなかった。
イタリアからオーストラリアに移住したイタリア人の家系に生まれる[10]。ビアンカという名の妻と2人の子供がいる[11]。
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