ケーニヒスベルク (プロイセン)
中世後期からプロイセンの中心だった都市、現在のロシア、カリーニングラード / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ケーニヒスベルク(ドイツ語: Königsberg[注釈 1], 公式表記:Königsberg (Pr)[注釈 2])は、中世後期から1945年まで東プロイセンの中心であった都市。ドイツ語で「王の山」という意味がある。現在はロシア連邦のカリーニングラードとなっている。
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この項目では、ドイツの東プロイセンの中心都市(1945年まで)について説明しています。それ以降のソビエト連邦、あるいはロシア連邦のカリーニングラード州の州都としての都市については「カリーニングラード」をご覧ください。 |
概要 ケーニヒスベルクKönigsberg (Pr), 過去に属していた国 ...
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北方十字軍の時代、1255年にザームラント(ドイツ語版)半島の真南のプレーゲル川河口にドイツ騎士団によって建設され、ボヘミア王オタカル2世を記念して名付けられた[1]。街は、ドイツ騎士団国、プロイセン公国、東プロイセン州の首都となった。バルト海の港は、ドイツの文化的中心地へと発展していった。リヒャルト・ワーグナー、イマヌエル・カント、E.T.A.ホフマン、ダフィット・ヒルベルトなどの著名人の住居もあった。
ケーニヒスベルクは第二次世界大戦中の1944年の連合国軍が行った空襲により相当の被害を被り、赤軍との戦い(ケーニヒスベルクの戦い)に敗れ、陥落した。ポツダム宣言によりケーニヒスベルクを含む東プロイセンの北半分はソビエト連邦に併合、ドイツ人は追放され、その後主にロシア人が入植した。その後短期間、「キョーニクスベルク」 Кёнигсберг (Kyonigsberg) というようにロシア風の名称となり、当時の最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンにちなんで、カリーニングラードと改称された。現在のカリーニングラード州州都である。