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コロンビアの作曲家、ヴァイオリニスト (1880 - 1971) ウィキペディアから
ギジェルモ・ウリベ・オルギン(Guillermo Uribe Holguín[注 1] 1880年3月17日 - 1971年6月26日)は、コロンビアの作曲家、ヴァイオリニスト。同時代のコロンビアにおける最も重要な文化人の1人であった。多作家であった彼の作品ジャンルは多岐にわたっており、彼はコロンビア国立交響楽団(かつての国立音楽院管弦楽団)の設立者でもある。
ウリベ・オルギンはボゴタに生まれた。父はギジェルモ・ウリベ、母はメルセデス・オルギン(Mercédes-)であった。工業学校に通う傍ら、彼は国立音楽アカデミーにおいてヴァイオリンをRicardo Figueroaに、作曲をSantos CifuentesとAugusto Azzaliに師事した。自らの上達度に満足できなかったウリベ・オルギンは、Narciso Garayを探し出して私的な師とした。工学系の学問を修めた彼は1903年にニューヨークを訪れ、初めてプロのオーケストラやオペラを耳にする。この地において彼は民謡の旋律に基づく300の『trozos』に着手し、様々な楽器のために楽曲を書いた。彼は1905年にアカデミーのヴァイオリンと和声学の教授に任用され、同年12月に自作の独唱、合唱と管弦楽のための『Victimae Paschali』を指揮している。
ウリベ・オルギンはコロンビア政府からの奨学金を獲得し、パリで学ぶことになった。1907年、彼はスコラ・カントルムにおいてアルマン・パラン(Armand Parent)にヴァイオリンを、ヴァンサン・ダンディに作曲を師事する。この時の学友にはエリック・サティやホアキン・トゥリーナらがいた。後に、ウリベ・オルギンはブリュッセルにおいてセザール・トムソンとエミール・ショーモン(Émile Chaumont)からもヴァイオリンの指導を受けている。1909年にパリの国民音楽協会において、彼の『ヴァイオリンソナタ第1番』がガブリエル・ヴィヨームのヴァイオリン、リカルド・ビニェスのピアノによって演奏された。パリでの研鑽を反映し、彼が1930年以前に書いた作品にはフランスからの影響が強く表れている[1]。ウリベ・オルギンはパリでピアニストのLucía Gutiérrez(1925年没)と出会っており、2人は1910年に結婚した。彼女はしばしば夫の作品を演奏した。
1910年にコロンビアに帰国したウリベ・オルギンは、新たに設立されたボゴタの国立音楽院の院長に就任した。1932年、フランス政府は彼をレジオンドヌール勲章のシェヴァリエに叙することを決定した。彼は作曲に専念すべく1935年に音楽院の職を退く。1939年には「Medalla Cívica del General Santander」に叙され、1941年には自伝書を出版、1942年に音楽院長の職に復帰すると1947年までこれを務めた。ウリベ・オルギンの絶筆作品となったのは1962年の『Doce canciones』 Op.120である。彼はボゴタに没した。
2005年以降、コロンビアのギタリストであるNilko Andreas Guarinがウリベ・オルギン音楽の復権に力を注いでおり、作品の校訂や世界的な宣伝活動を行っている。Guarinはニューヨークにおいてアンドレス・セゴビアのために書かれながらも演奏されることのなかった『Pequena Suite』 Op.80-1の初演も行った。さらに彼はニューヨークやその他都市において、これまで演奏されたことがなかったウリベ・オルギン作品の録音を進めている。中にはヴァイオリンソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、歌曲、ギター曲などが含まれている[2]。
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