ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争
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本項は、13世紀前半にガーリチ公国ならびにヴォルィーニ公国の支配権をめぐって行われた権力闘争についてまとめたものである。ロシア語 / ウクライナ語ではガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争 / ハールィチ・ヴォルィーニ公国統一戦争(ロシア語: Война за объединение Галицко-Волынского княжества、ウクライナ語: Війна за об'єднання Галицько-Волинського князівства)等の名称で呼ばれ、1205年 - 1245年[1]をその期間とする[注 1]。
概要 ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争, 時 ...
ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争 | |||||||||
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関連地図 黄:ガーリチ・ヴォルィーニ公国領の主な都市 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
(1228年以降) ヴォルィーニ公国 |
(1228年以降) 1.チェルニゴフ公国 2.ベルズ公国 3.ハンガリー王国 4.ガーリチのボヤーレ | ||||||||
指揮官 | |||||||||
ダニール ヴァシリコ |
1.ミハイル 1.ロスチスラフ 2.アレクサンドル 3.カールマーン 3.アンドラーシュ 3.ベーラ |
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この闘争は、リューリク朝の諸公家による相続争いに加え、ハンガリー王国、ポーランド王国の介入、さらに両王国の支援を受けた在地のボヤーレ(貴族層)によって展開された。闘争はガーリチ、ヴォルィーニ両公国を統合・統治(ガーリチ・ヴォルィーニ公国)していたロマンの死亡した1205年に端を発し、1245年のヤロスラヴリの戦い(ru)に勝利したロマンの子ダニールが支配権を確定させる形で終結した[注 2]。
(留意事項):本頁の地名・人名は便宜上ロシア語表記からの転写に統一している。ウクライナ語による名称についてはリンク先を参照されたし。