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エディ・コリンズ
アメリカ合衆国の野球選手 (1887-1951) ウィキペディアから
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エドワード・トローブリッジ・コリンズ・シニア(英語: Edward Trowbridge Collins Sr., 1887年5月2日 - 1951年3月24日) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ミレルトン出身のプロ野球選手(二塁手)。右投左打。ニックネームは"Cocky"(「生意気」の意)。19歳でデビューしてから25年現役を続け3300安打以上を記録、20世紀最高の二塁手の一人と称される。
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経歴
要約
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アスレチックス時代
コロンビア大学在学中の1906年にフィラデルフィア・アスレチックスから「サリバン」という名でデビューした[1]。
1909年に二塁手のレギュラーに定着し、打率.347、67盗塁を記録、翌1910年に81盗塁を記録して、初の盗塁王となった。
アスレチックス時代は、コニー・マック監督の下で、スタフィー・マッキニス、ジャック・バリー、フランク・ベーカーらとともに、『10万ドルの内野陣』の一人として4度ワールドシリーズに出場した。コリンズは、当時「チョーク・グリップ」と呼ばれた独特のバットの握りから、高い打率を毎年コンスタントに残すことのできた打者で、1909年以降1915年までの間、7年連続で.320以上の打率を記録し続けていた。1914年には打率.344を記録し、同年代に活躍していたタイ・カッブらとの競り合いのなか首位打者(公式記録上はタイ・カッブが首位打者となっているが、出場不足とし、コリンズを首位打者とする記録もある)となり、シーズンの最優秀選手にも選ばれた。

ホワイトソックス時代
1915年からはシカゴ・ホワイトソックスでプレーし、移籍最初の年は打率.332、46盗塁を記録。またこの年の119四球はリーグ最多となり、出塁率は.460にもなっていた。1917年には53盗塁を記録し、ワールドシリーズでは22打数9安打、3盗塁と活躍しチームをワールドシリーズ制覇に導く活躍をした。しかし、2年後の1919年に、チームはブラックソックス事件に巻き込まれ、多くの永久追放者を出すことになった。
1920年に224安打、.372の打率を残すなど30代になってもコンスタントな活躍を続けていた。1923年と1924年には2年続けて盗塁王となる。1924年からの3年間はホワイトソックスの選手兼任監督を務めたが、自身もこの間一度盗塁王となっただけでなく、いずれのシーズンでも.340以上の打率を記録するなど、フィールドでもチームを引っ張る存在であった。
アスレチックス復帰
1926年オフに、コリンズはホワイトソックスから放出され、アスレチックスに復帰、4年在籍した後1930年、43歳で選手を引退する。
引退後
その後は1932年にアスレチックスのコーチを務め、1933年から1947年までは、ボストン・レッドソックスのゼネラルマネージャーを務めた。この間、後にアメリカ野球殿堂入りするボビー・ドーアやテッド・ウィリアムズらとの契約を成功させ、チーム再建の手助けとなる。1939年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1951年、ボストンにて死去。
なおコリンズの息子(Eddie Collins Jr.)も後年アスレチックスの選手になったが、実働はわずか3年(1939年、1941年、1942年)であった。このコリンズJr.の義父は、野球殿堂入りした投手のハーブ・ペノックである。
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詳細情報
要約
視点
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はメジャーリーグベースボール歴代最高
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す
通算犠打数記録
コリンズのメジャーリーグ記録である通算犠打数(512)は、2003年8月20日に、当時読売ジャイアンツの川相昌弘選手が更新した[3]。ただし、MLBのレギュラーシーズンの打撃記録において、犠打(犠牲バント)と犠飛(犠牲フライ)が分けて記録されるのはもっと後年のことで、当時は両方が「犠打」に数えられていた。
ワールドシリーズでの打撃成績
- 128打数42安打、二塁打7、三塁打2、盗塁14、打率.328
監督としての記録
タイトル
表彰
- シーズンMVP(チャルマーズ賞):1914年
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
記録
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出典
関連項目
出典・外部リンク
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