ウクライナ軍事組織
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ウクライナ軍事組織(ウクライナぐんじそしき、Українська Військова Організація, УВО, ウクラインスカ・ビースコヴァ・オルハニザーツィア)とは、1920年8月3日、チェコスロヴァキアのプラハにて設立・結成された、ウクライナ・ハリチナ軍(ウクライナ語版)の将校率いるウクライナ人の地下組織である。1918年10月18日、イェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチ(ウクライナ語版)を議長とするウクライナ国民評議会がリヴィウで設立され、西ウクライナ人民共和国(Західноукраїнська Народна Республіка)の樹立が宣言された[1]。ウクライナ人民共和国軍の大佐、イェヴヘーン・ミハイロヴィチ・コノヴァーレツ(Євген Михайлович Коновалець)がこの組織団体の議長に選出された。
ウクライナ軍事組織 | |
---|---|
Українська Військова Організація | |
ウクライナ軍事組織の構成員の一部。写真右端の人物は、この組織の指導者、イェヴヘーン・コノヴァーレツ(1921年撮影) | |
活動期間 | 1920年8月3日 - 1929年2月3日 |
活動目的 |
ウクライナ民族主義(英語版) 大ウクライナ主義(ウクライナ語版) 反共主義 反ユダヤ主義 反ソ連感情 反ロシア感情 反ポーランド感情 |
指導者 | イェヴヘーン・コノヴァーレツ |
本部 | プラハ |
前身 |
シーチ銃兵隊 ウクライナ・ハリチナ軍(ウクライナ語版) |
後継 | ウクライナ民族主義者組織 |
テンプレートを表示 |
この組織団体は、自分たちの活動範囲について、当初はウクライナ国内におけるすべての土地(ルーマニアやチェコスロヴァキアを含む)に拡大することが計画されたが、実際の活動地域は、1919年以来ポーランドの統治下にあった東ハリチナ地方に限定された。この組織団体の活動は、妨害行為 (放火、電話および電信通信の損害)、爆破、財産の「収用」、政治家の暗殺であった[2]。1922年の春、イェヴヘーン・コノヴァーレツはベルリンに向かい、ドイツの防諜機関である「アプヴェーア」のフリードリヒ・ゲンプ(ドイツ語版)と会談した。彼らは「ウクライナ軍事組織が諜報活動で収集した情報について、ドイツの諜報機関に全て教える」との契約を書面で交わした。これと引き換えに、アプヴェーアはウクライナ軍事組織に対して金銭を提供した[3]。コノヴァーレツとその仲間たちの目的は、外国に亡命中のウクライナ人の民族主義勢力を団結させ、共通の敵であるソ連と戦うことにあった[3]。
1929年1月28日から2月3日にかけて、第一回ウクライナ民族主義者国際会議がオーストリアで開催され、イェヴヘーン・コノヴァーレツがこの組織の議長に選出された[1][3]。この会議を経て、ウクライナ人の民族主義者による共同統一組織「ウクライナ民族主義者組織」(Організація Українських Націоналістів)が結成された。「ウクライナ軍事組織」は「ウクライナ民族主義者組織」に統合されることとなり、イェヴヘーン・コノヴァーレツは1938年5月に暗殺されるまで組織の指導者を務めた[3][4][5]。
ウクライナの国内外に存在する民族主義組織とウクライナ軍事組織とを統合した彼らは、ウクライナを占領する外国に対する地下闘争を開始した[6]。1929年に発刊されたウクライナ軍事組織の小冊子には「テロリズムは自衛手段であるだけでなく、扇動の一形態でもあり、望むか否かに関係なく、敵味方の双方に等しく影響を与えるだろう」と記述されている[7]。